すばらしい作品とは
20世紀が訪れるまでの長い間「目に映るとおりに世界を描くこと」は画家たちを惹きつけてやまないテーマだった。当時、ほとんどの人々にとって「すばらしい絵」とは「目に映るとおりに描かれた絵」であり、それこそがアートの「正解」だと考えられていた。しかし、カメラの登場により「目に映るとおりに世界を描く」というルネサンス以降のゴールが崩れてしまった。
アンリ・マティスは「アートにしかできないことは何か?」という問いをめぐって「探求の根」を伸ばした。その結果、「目に見えるものを描き写す」という従来のゴールから離れて、「色」をただ「色」として使うという「自分なりの答え」を生むに至った。マティスが「20世紀のアートを切り開いたアーティスト」と言われ、『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』が「すばらしい絵」だとされているのは、この「表現の花」を咲かせるまでの「探求の根」の革新性ゆえでもある。
これまで「表現の花」の出来栄えばかりに注目が集まり、「探求の根」や「興味のタネ」が十分に顧みられていなかったということに、アーティストたちが気づきはじめた。アートの答えは「雲」のようにつかみどころがなく、常に形を変え続ける。数学的に証明された答えが不変であるのとは違い、アートではどんなに優れた解釈であっても、それは時代や状況、人によって刻々と変化していく。アートの答えはむしろ「変わること」にこそ意味がある。
リアルさとは何か
『アビニヨンの娘たち』は、ピカソがこれまでとは違う「リアルさ」を探求した結果として生まれた「表現の花」である。「リアルな絵」という時、多くの人は「遠近法」で描かれた絵を思い浮かべる。しかし、遠近法は描く人の視点が1箇所に固定され、常に「半分のリアル」しか映し出せない。遠近法に疑問を持ったピカソは、3次元の世界を捉えている実際の状態により近い「新しいリアルさ」を模索し、その結果「様々な視点から認識したものを1つの画面に再構成する」という答えに辿り着いた。
アートとは何か
「何がアートであり、何がアートでないのか」を決める基準はどこにあるのか。アンディー・ウォーホールの作品は21世紀のアートを方向づけた重要なものとして認識されている。
『ブリロ・ボックス』は、商品のロゴやパッケージデザインを、そっくりそのまま木箱に写し取っただけである。彼は「これがアートだなどと言える確固たる枠組みは、実はどこにも存在しないのではないか」という問いを投げかけた。『ブリロ・ボックス』は、それまで堅固なものに思われていた「アート/非アート」の垣根を壊してしまった。