一斬一切斬
「一斬」とは1つのものを切ること。「一切斬」とはすべてを切ること。「一斬一切斬」とは1つを斬れば、全部が斬れることを意味する。世界は網の目のように繋がって影響し合っている。これを仏教では「縁起」と呼ぶ。網の目の1つを斬ることで、網全体の形状が変わる。大切なのは、尻込みしないこと。縁起をよく理解することである。
泥に入り水に入る
人を救うためには、泥にも入り、水にも入る。仏教では、他者のために尽力することを「利他」と呼ぶ。修行僧が「利他」を行うのは、相手の幸せを願うと同時に、自分のエゴ(自己愛)を洗い落とすという意味がある。
平常心是道
禅の世界では、遠い未来の目標よりも、今、目の前に広がる日常の行動にこそ、何かを生み出す力が潜んでいると考えられている。平常心を生きてこそ、未来は開けていく。
麻三斤
仏(真理)とは、どこか遠いところや、神聖な場所にあるのではなく、とても身近なところにある。言ってみれば、衣一着分の麻の布切れ(麻三斤)のようなもの。禅の心にあるのは「いま、この瞬間」だけである。
色即空々即色
物質の世界はすべて仮の世界であるけれども、私たちはその物質世界を離れて生きることはできない。様々なものや出来事は因果関係によって生じたり、変化するから、現実を絶対視して悲観しないこと。
忘牛存人
牛とは自我(エゴ)の象徴。自分が乗っている牛(自我)を忘れ、乗っている自分自身の存在も忘れてしまう境地。「無心」の境地を指す。自然と1つになる、宇宙と1つになることこそ、人生最大の目的である。
飯に逢うては飯を喫す
飯に逢うては飯を喫し、茶に逢うては茶を喫す。食事の時は食事に専念して、お茶を飲む時はお茶に徹する。対象と1つとなって十分に楽しみ尽くすことは、結局は人生を充実させることにつながる。
面壁九年
中国禅の始祖・達磨は九年もの間、岩穴の中で壁に向かって坐禅を組んだ。長い年月、1つのことにただひたすら向き合うことで真理を得ることの象徴である。
無得無失
禅の世界では、人は何も手に入れることはできないし、何も失うことはできないと考える。ただ生きている間、言葉や芸術や仕事やお金を社会から借りているだけである。人にあるのは命だけ。それも悠久の時の流れのほんの一瞬のことである。命に感謝して、日々を生ききるだけが、私たちにできる最善の生き方である。
阿吽
「阿」とは万物の根源。「吽」とはすべてのものが帰着するところ。禅では、この「あ」と「うん」の間に、余計な考えをはさみこまないことを求める。呼吸の間に余計なことを考えない。つまり呼吸に意識を集中して、没入することである。