現実に対して自分をアジャストする
あくまで現役ということを大事にするのなら、お金の評価はまた別の問題と整理する。役職があるかないかなんて別の問題で、最低限の給料をもらえばいい。そういう風にプライドの問題を整理できれば楽になる。
折り合いをつけるとは、ネガティブなことではない。現実生活に対して自分自身をアジャストしていくということを考えれば、適応力があれば虚しさに襲われないということでもある。虚しさ、不安の正体とは、現実の状況が変わっているのに自分の気持ちを変えることができないでいることで生じる、気持ちのズレである。
現実に適応していくために必要なのが、現在の自分が一体どんな風に他人から見られているかを知ることである。その客観的な評価を自分の主観的な評価とすり合わせて、現実にアジャストしていく。こうやって一度折り合いをつけられれば、次につらい局面が訪れても、乗り切ることができる。
自分のアイデンティティを問い直す
50歳になった時こそ、「自分のアイデンティティとは何か」という問いに、しっかり向き合うことが大事である。アイデンティティとは、その人の生きてきた歴史、人生そのものである。「自分は何者である」という手応えのある存在証明をつかめれば、50歳の危機に際しても落ち着くことができる。
アイデンティティと職業は、必ずしも一致しない。それより「自分を何だと思いたいか」が重要である。自分のアイデンティティを掘り下げていくことによって、人生の手応えが得られる。
後悔から人生を意味付けし直す
生産的であれば、お金が稼げて、人から評価される。20、30代にとっては大切だが、50歳になると「生産性一元論」といった考え方は、どうも薄っぺらいのかもしれないとさえ思えてくる。とすると、ある種の後悔というものは、決して後ろ向きというだけではなくて、これまでやってきたことを豊かに意味付けし直すということでもある。
10代の頃にすべてがうまくいき、本当に楽しかったというのも幸せだが、うまく行かなかった不始末の思い出が焼け残った炭のように、自分を温めてくれるというのも味わい深い人生である。過去の不始末を振り返ることは、成熟している今の自分を感じることにもつながる。
死とは自意識の消滅にすぎない
死とは自意識の消滅である。つまり、自分が生きているということ、その喜怒哀楽、それらを感じている意識が消えるだけなんだ、こう考えれば、寂しいことは寂しいけれども、それだけのことかもしれないとも思えてくる。
自意識が消えることを想像するのは、怖いことである。しかし、それをシンプルに捉え直せば、死というものの見え方も変わってくる。