知識の錯覚
一見単純そうに思えるものを含めて、物事の多くは複雑である。人間は自分が思っているより無知である。私たちは、実際にはわずかな理解しか持ち合わせていないのに物事の仕組みを理解しているという錯覚を抱く。
すべてを理解することは不可能である。私たちは曖昧できちんと整理されていない抽象的知識に頼っている。実際、ほとんどの知識は連想、つまりモノや人との間の高次なつながりの寄せ集めに過ぎず、詳細なストーリーとしてわかりやすく説明できるものではない。
知性は物事の要点だけを捉え、詳細情報を忘れる
思考は、有効な行動をとる能力の延長として進化した。目的を達成するために必要なことを、より的確にできるようになるために進化した。思考することで、それぞれの行動の効果を予測したり、過去に別の行動をとっていたら状況はどのように変わっていたかを想像したりすることができ、その結果様々な選択肢の中から有効なものを選べるようになる。
最適な行動を選ぶ上で因果関係が重要であるにもかかわらず、なぜ世界の仕組みについて個人の詳細な知識はこれほど限られているのか。それは、思考プロセスは必要な情報だけを抽出し、それ以外をすべて除去するのに長けているからである。私たちの認識システムはその要点や本質的な意味だけを抽出しにかかり、それ以外はすべて忘れる。私たちの知性は、新たなモノや状況に対応できるように、経験から学び、一般化するようにできている。新たな状況で行動するためには、個別具体的な詳細情報ではなく、世界がどのような仕組みで動くのか、そのおおもとにある規則性だけを理解しておけばいい。
人は自分の頭の内と外にある知識を錯覚する
私たちは他の人々の頭の中にある膨大な量の知識にアクセスできる。だから人は協力する。技術や知識を簡単に共有できるのは、社会集団で暮らすことの大きなメリットだ。私たちが自分の頭にある知識と、他の人々の頭の中にある知識を区別できないのも不思議ではない。なぜならどんな作業をする時も、大抵両方使うからだ。思考の性質として、入手できる知識はそれが自らの脳の内側にあろうが外側にあろうが、シームレスに活用するようにできている。私たちが知識の錯覚の中に生きているのは、自らの頭の内と外にある知識の間に明確な線引きができないためだ。それができないのは、そもそも明確な線など存在しないためである。だから自分が知らないことを知らない、ということが往々にしてある。