オニツカ訪問
スタンフォード大学時代は、毎朝走りながら、そしてテレビのある部屋の隅で父親に打ち明けるまで、ずっと考えていた。日本に行き、靴会社を見つけて、私の馬鹿げたアイディアを売り込もうと。そして、旅行に出た。
東京には父の知り合いが何人かいて、そこで『インポーター』という月刊誌を発行している2人の元米兵のことを聞き、訪ねた。自分の馬鹿げたアイディアを話すと、2人は興味を持ち、輸入を考えている靴会社があるのかと聞かれた。私はタイガーというブランドが気に入っていると言った。神戸にあるオニツカという会社が製作しているブランドだ。2人から日本でビジネスをする時の心得を聞いて、オニツカに電話して、アポイントを取った。
オニツカを訪れ、スタンフォード時代のプレゼンをそのまま引用した。彼らは一斉に質問を浴びせた。私はすぐにサンプルを送ってくれるよう頼み、50ドルの前払金を約束した。
バウワーマンと共同創業
1964年、12足のシューズを受け取った。この内2足をアメリカで最も知られた陸上のコーチであり、オレゴン時代のコーチだったビル・バウワーマンに送った。彼は「あの日本のシューズだが、すごくいい。私を契約に加えてくれないか」と言い、パートナーシップを結んだ。その日、オニツカに手紙を書いて、タイガーシューズのアメリカ西部での独占販売を任せてもらえないかと要請し、至急300足を送ってくれるように発注した。1足3.33ドルで1000ドルを父は貸してくれた。数日後、西部でのオニツカの独占販売を任せる手紙を受け取った。
私は大西洋岸の北西部を走り、様々な陸上競技会に向かった。レースの合間にコーチ、ランナー、ファンらと談笑し、シューズを見せる。反応は上々で、注文が間に合わなかった。シューズを完売させ、銀行に借りた金を返すと、オニツカに前回の倍の発注をし、また金を借りた。1967年の終わりには、バウワーマンがジョギングについて書いた本が100万部も売れて、ブームを起こし、ランニングという言葉の意味を変えた。会社は創立から5年連続で前年比の収益が倍になった。
ナイキの誕生
1971年、オニツカは、これまで自分たちが開拓した販売店に対して、直営の販売店にならないかと裏で動き始めた。そこで、貿易会社の日商岩井と提携し、オニツカと手を切ることにした。オニツカに代わる製造業者を見つける。そして、新製品のナイキが生まれた。ギリシャの神、勝利の女神の名だ。
アスリートからの支持が重要であることはわかっていた。アディダスやプーマなど他のブランドと来そうには、トップアスリートに身につけてもらい、宣伝してもらわなければならない。1976年のオリンピックでは、複数の人気競技でアスリートがナイキを履いた。そして、売上は1400万ドルに達した。