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2017/02/06更新

鈴木敏文 孤高

  • 日経BP社
  • 発刊:2016年12月
  • 総ページ数:376P

254分

2P

  • 古典的
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異なるリーダシップ

鈴木敏史が、セブン&アイ・ホールディングスの前身であるイトーヨーカ堂に入社したのは1963年。東京五輪の前年で、人口1000万都市となった東京では、猛烈な勢いで消費が拡大していた。ダイエーの中内、セゾンの堤など、流通業界の偉人たちが頭角を現し始めた時に、鈴木は東京のローカルスーパーにすぎなかったヨーカ堂に足を踏み入れた。中内も堤も、強烈な個性とトップダウンを持ち合わせ、創業家であり会社のオーナーとして、絶対的な権力を振るった。だが、創業オーナーでありながら、伊藤のリーダーシップは異なっていた。

「伊藤さんは我慢強いんですよ。慎重という表現もできるけど。コンビニエンスストアをやると言った時も、アメリカのセブンイレブンを買うと言った時も反対だった。中国進出も銀行設立も。何事にも反対したのは性格。それでも、反対されたことを何とかものにしてきたから、割合と意見を聞いてくれるようになった。この範囲までやってダメだったら諦めますと、きちっと宣言する。そうすると、じゃあ、まあ、となる」

鈴木は、自己実現の欲求を満たすために、伊藤はオーナーとして自らの資産を守るため、互いを利用し合ったと言える。この2人のトップが牽制しあうエネルギーとバランスが、1人の絶対権力者が君臨したダイエーやセゾンにはなかった、バブル崩壊などの変化を生き抜く強さをもたらした。

セブンイレブンの成功

セブンイレブンの成功は、鈴木の先見性だけによってもたらされたものではない。当初、米セブンイレブンの基本だった直営店方式による出店計画を現場が進めていたところに、豊洲の酒屋がオーナーとして名乗り上げたことで、急遽FC方式に転換したのは、鈴木の英断だった。この政策転換がなければ、加速度的な出店は不可能だった。米国になかったおにぎりや弁当などの「中食」の品揃えに注力することを決めたのも鈴木だし、共同配送を推進したのも鈴木だった。それでも、これらの鈴木の斬新な発想を日々の事業運営の面で支えたのは、米国のノウハウによるところが大きかった。そうした米国のノウハウに、おにぎりや弁当などの廃棄が出たらロスは加盟店が負担するような、日本独自の仕組みも加えていった。

そして、ヨーカ堂が東京発祥のスーパーであり、セブンイレブンも必然的に東京から事業を広げていったことが、その後の成長のカギとなった。東京という巨大な消費地の中にいなければ、限られた地域に出店を集中する、いわゆる「ドミナント戦略」は機能しなかっただろう。物流効率などを考え、鈴木は当初「江東区から一歩も出るな」と店舗開拓の担当者に指示を出したという。その成功体験が、中長期に渡って収益性の高い出店を続ける基礎になった。