地ビールバブルの崩壊
「よなよなエール」は順調すぎるほどの滑り出しを見せた。発売当初「こんなに売れるのか」と圧倒され、同時に「製品が足りません」とお詫びする仕事に忙殺された。当時は、小規模ばビールメーカーが「地ビール」と呼ばれるようになった。その言葉には「観光地でしか飲めない」という付加価値、プレミアム感、非日常感がくっついていた。90年代後半、「地ビール」は大流行した。そのブームに乗って、まるで押し流されるように売上を伸ばした。
自分達の使命は町おこしではなく、アメリカ同様に個性的でおいしいクラフトビールを広めていく事だった。そのための戦略は、観光需要の開拓ではなく、リピーターの獲得だった。ところが、リピートしてくれる人が少なかった。「長野に来たついでに飲んでいる」のであって「クラフトビールが飲みたい」という人は少なかった。「地ビール」ブームは、数年で終焉を迎え、2000年頃には売上が頭打ちになった。打開策としてテレビCMなども打ったが流れは変わらず、迷走を始めた。
個性を守ることが鉄則
地ビールブームが収束すると、小規模メーカーの多くは撤退するか「個性的な味のビールは売れない」と製品の変更を余儀なくされた。しかし、ヤッホーブルーイングは大切なものは変えなかった。「アメリカで人気があるエールビールが日本でも受け入れられないはずがない」と考え、むしろ「目指す理想の味」を完成させようとした。
転機が訪れたのは、2004年の夏を迎える前の事だった。棚の書類を次々に整理したり、捨てたりしていた時に手紙が出てきた。「一緒にインターネットで世界を目指しましょう。三木谷浩史」と書いてある。楽天は1997年にオープンしていて、三木谷さん自身が、星野に「店を出しませんか」という営業に来ていたという。その7年前の手紙だった。当時、楽天に出したお店は開店休業状態だった。
ネット通販では、お客様にわざわざ「ヤッホーブルーイングのビールが飲みたい」と検索してもらわなければ、ホームページを見てもらえない。だから「検索して頂く工夫」と「リピートを獲得するための工夫」が必要である。
その最大のものは自分達の「個性」を知って興味を持ってもらうこと、ファンになってもらう事である。ホームページやメルマガを使えば、思いや考え方、温もりまで感じてもらう事ができる。大手企業のように「世の中の多くの方達と薄く広く交わる」のでなく「一部の方と濃く交わる」事が必要である。だからこそ、自分達の個性を出す事が鉄則である。
その後、メルマガを書きまくった。ビールのうんちく、醸造設備のことなど「自分が書きたいこと」「自分にしか書けないこと」を書いた。そして、個性的な味を理解し、愛してくれる人が少しずつ増えていった。