プー太郎時代
大学を運良く5年で卒業し、誰でも入れる小さな不動産会社に就職する事にした。小さな会社なら早くのし上がる事ができるし、不動産業ならノウハウを吸収していずれ独立のチャンスも掴めるだろうと考えたからだ。与えられた仕事は、怪しげな別荘地を飛び込みセールスで売り歩くという過酷なものだったが、必死で売りまくり、トップクラスの成績を上げるようになった。ところが、その会社はオイルショックの煽りを受け、あえなく倒産してしまった。入社10ヶ月後である。こうして長いプー太郎時代が始まる。
徹夜麻雀をして朝帰りし、夕方にまたゴソゴソ起き出して雀荘に出かけていく毎日だった。ここで負けたらもう後がないという崖っぷちのような勝負を、ギリギリの思いで幾度も勝ち抜き、糊口をしのいだ。
泥棒市場
20代も終盤にさしかかった頃、一念発起し、まずは金を貯めて独立する事にした。必死で稼いだ軍資金は800万円。何をやるか悩んでいたある日、ふらりと入ってみた何軒からのディスカウントストアで「これだ!」と思った。その頃、ディスカウントストアは、各地にぽつぽつと登場し始めていた新手の業態で、当時は主に「質流れ品」を売っていた。とにかく安けりゃ売れるだろうという安易な素人考えもあった。
小売業の常識などなく、行き当たりばったりで、西荻窪の住宅街にある18坪の路面物件を借りた。しかし、この店舗は駅から遠く、車も停められず、幹線道路にも面していないという物販業に適さない物件だった。
質流れ品を扱うには古物商の鑑札が必要だったため、企業倒産などに伴う金融処分品、いわゆるバッタ商品に着目した。しかし、バッタ問屋で仕入れても安くなく、儲からない。ともあれ創業の店「泥棒市場」は船出した。
大型チェーン全盛期、個人経営の雑貨店など掃いて捨てるほどあった。18坪の零細店が注目されるには、強烈なネーミングにするしかない。個性的な店名も功を奏し、オープンの日は多くのお客様が詰めかけた。しかし売れたのは最初の3、4日くらいで閑古鳥が鳴いた。素人商法が通用するほど世の中は甘くない。「激安」を謳うわりには安くなく、品揃えも貧相で、バッタ屋には何度も騙された。全財産の800万円はあっという間に底をつき、金がないから仕入れができない、仕入れができないから売れなくなるという悪循環に陥った。
そこで戦略を切り替え、大手企業の裏口に日参し、廃番品やキズもの、サンプルや返品商品などの処分品を二束三文で分けてもらい、山のようなガラクタ商品を店内に積み上げた。そして、ダンボールに手書きのPOPを貼りまくった。これがドンキ名物となっている「圧縮陳列」と「POP洪水」の始まりだった。