周囲になかった家具店を開業
大学を卒業後、そのまま父の会社の似鳥コンクリート工業に入社。ところが働いてまもなく盲腸を患った。回復は思わしくなかったが、親は働けという。傷は痛む。そして家出に踏み切った。住み込みで働ける仕事を探し、バスにつける広告をとる営業職につくが、ノルマを全く達成できない。6ヶ月でクビになり、ふらふらした後に実家に帰る。
ところが父は、似鳥コンクリート工業は毎年赤字で将来性はないと会社を清算。この時、所有する30坪の土地・建物で商売でもやろうと決めた。周辺は割と住宅も多い。衣食住の内、周辺を探すと家具屋だけがない。家具屋は当時、札幌中心部にしかなく、競争がない状況だった。家具の将来性や可能性など何も考えない、食べていくための生業として家具販売を選んだ。
内助の功で軌道にのる
家具問屋を探し、1967年「似鳥家具卸センター北支店」を開業した。ところが、月額販売額60万円を下回ると赤字だが、40万円ぐらいしか売れない。極度のあがり症で接客ができない。お金がなく、食べるものにも困る始末だった。窮状を見かねた母がある日、結婚すればいいと提案してきた。8回目の見合いで、出会った家内が商売上手だった。おかげで自分は配達と仕入に専念でき、この役割分担が似鳥家具卸センターを成長させる原動力になった。もし自分が販売上手だったら、ただの優良店に終わっていた。仕入れや物流、店作りに集中した事で企業として羽ばたく事ができた。
ロマンとビジョンを掲げて先をいく
1号店が軌道に乗り、1971年に2号店を出店。250坪の店で北海道では初となる郊外型の家具店。当時、一番大きい家具店の2倍の大きさだった。ところが、まもなく2号店から500mぐらいの場所に1200坪の家具店が出店し、売上が減少し、資金繰りが悪化。赤字になり金融機関から融資をストップされた。このままでは倒産すると鬱状態な日々が続く中、米国の家具店を視察するセミナーに参加した。
米国の家具店は、品質や機能も素晴らしく、用途や価格帯も絞り込まれている。「米国風のまねをしてみよう」。顧客のニーズを先取りする事で、競合店にも勝てると実行した。米国のような豊かな生活を日本で実現したい。そのための企業に育てようという明確なロマンが芽生えた。そこで30年で何ができるのかを考え、長期計画を初めて作った。ゴールから今の会社のありようを考えた。
創業期は苦難だらけだった。ニトリの知名度を上げるには安売りしかない。当時は問屋の力が強いし、他社より安く仕入れる事は難しい。そこでメーカーから直接家具を買い取るなど、仕入れ先を少しずつ増やしていった。