量より質の時代
20世紀を通して続いてきた「成長期」が、少子高齢化など様々な矛盾と共に終焉を迎えはじめている。これからは「成熟化期」に向かっていくが、その過渡期として「成熟化期」には2つの「顔」がある。
1つは「成長期」では「量の拡大」だったのに対して、「成熟化期」では「質の深化」が主題になるということ。つまり新しい消費をするにしても、ただ数を増やすための購買ではなく、より質の高いモノへの買い替えであったり、所有価値(購買)から使用価値(レンタル、リース、シェア)への転換だったりする。量は増えないが、質が変化し、成熟的な消費になる。
拡がる貧富の格差
成熟化する社会では、格差が拡大している。理由の1つは、20世紀のように、絶対規模が右肩上がりで増大し、多寡の違いはあっても、誰もが豊かになれた成長期が終わってしまったからだ。だから、成功する者としない者が明確に分かれる。もう1つは、純粋な競争経済の時代から、博打に近いマネーゲーム経済の時代になったという事だ。元手が無限大ならば絶対に負けないという論理だ。
2014年段階で、1%の富裕層が地球上の富の約48%を独占し、残り99%の人々が残り半分の富をシェアしている。富の格差がここまで拡大したのは、米国の中央銀行FRBが、金融緩和策を継続してきたからだろう。紙幣が大量に刷られると、末端にまでカネが巡ると考えられたが、実際には、刷られたカネは、1%の富裕層に吸い込まれてしまった。
成長の限界
21世紀に入り、20世紀の「西洋文明妄信」が残した大きなツケが回ってきた。環境問題、資源問題、人口問題、原発などの不完全な技術、極端な格差社会、地域紛争などの問題だ。すべて「文明の進歩」が、実は様々な問題と歪みを生んできた。
愚行の連鎖を止めるためには、1%を占める巨大な資本家やリーダーに、世の中の風の変化を気付かせなければならない。「強欲資本主義」や「物質主義」や「拝金主義」が如何に人類にとって愚かな考えであるかという気付きだ。
人類が何の反省もせず、欲望の求めるままに富や国土や利権を求めて争い続けるのは、時代の進化が依然として経済原理の中にのみ存在すると信じているからではないか。即ち、争いの基本は、経済の成長を前提として富を先取りし、陣地を拡大する競争なのではないか。ここにも「成長神話」に付随する「強迫観念」が関係している。経済規模が無限に拡大するという前提に立てば、富を増やし続けなくては、ライバルに負けてしまうからだ。