幸福の効率計算
好きな事をするのは楽しい。それは幸福につながる事である。他人がそれをどう考えようが、自分にはあまり関係のない事だ。10円を払ってうどんを食べる事と800円を払って音楽を聴く事は、どちらが割に合うか。そう考え始めると、人間の感じる楽しさや幸福が平板化されてくる。「効率、効率」と縛られて生きる事自体が人間の心の余裕を奪ってしまって、効率的な幸福を追い求める事で疲れてしまう事にもなる。
ある楽しさや幸福感を「かけがえのない」ものと感じるなら、それは「無限大」とも言える訳で、そうなるとそのために使用するお金や時間の量がどれほど大きくなったとしても、効率計算など全く問題ではなくなってしまう。
人生の味
ものが豊かになった。子供の頃を振り返ってみると、食事が贅沢になった事に驚く。子供だった頃は、ライスカレー、親子丼、寿司などは大変な御馳走だった。こんなのを昼食に食べる事など考えもつかなかった。現在はまだに飽食の時代である。
しかし、ものが豊かになったために、我々はなるべく多くとか、なるべく早くとかいう考えにとらわれてしまって、すべてが「大味」になり、心の細やかさを忘れてしまって、物事を落ち着いて味わう事を忘れてしまっていないだろうか。飽食というのは量に関する事であって、心のこもった味という点では、むしろ貧困になってはいないだろうか。このように考えると、これは食事の味だけではなく「人生の味」という点にまで拡大して、我々の生き方を全体的に検討するべきだと思われてくる。遠い外国へ行った、たくさんの人と会ったなどと量的に計れる事だけを頼りにしていて、人生の微妙な味わいを忘れてしまってはいないかを反省するべきである。
なぜ、私だけが
「なぜ、私だけがこんなに苦しまねばならないのか」と嘆く人は多い。しかし、どんな不幸であるにしろ「私だけが」と言えるのは素晴らしい。現代は個性が大切と言われる。「個性を伸ばそう」などという言葉は日本中の学校や会社に行けば行く事ができる。しかし、実際は自分の「個性とは何か」と考えても、なかなかわからないものである。とすると、内容はどんな事であれ、「私だけが」と言えるとは、大した事である。つまり、「なぜ、私だけが不幸なのか」という問いは、個性発見への切り口を提供している。それならば、その切り口をもっと広げ、そこから見出されてくるものに、いかに苦しくても、注目してゆこうではないか。