好条件が選択肢を減らす
私達が持っている「有利と不利」の定義はとても狭く、硬直している。そのため、本当は役に立たないものを高く評価したり、力と知恵を授けてくれるものを無用と切り捨てたりしている。
名声があって、富があって、エリートに属していれば、どんなにいいだろう。私達はそんな想像をたくさんしてきた。しかしそうした好条件が選択肢を減らしている事には、なかなか考えが及ばない。
真実は逆U字に宿る
裕福な家庭での子育ては、世間が思っている以上に難しい。貧すれば鈍すと言うが、富も人をだめにする。野心を失い、誇りを失い、自分は価値ある人間だという感覚まで失われる。貧乏でも金持ちでも、極端なのはだめだ。
お金があれば良い親になれるかというと、そうではない。お金があれば良い子育てができるというのは一定のレベルまでで、それを超えたら差はなくなる。その分かれ目は、世帯年収でおよそ75,000ドルが目安だという。それ以上になると「限界収穫逓減」が起きる。
そして、収入が一定額を超えると、子育ては困難なものになる。子供を育てる環境は、親自身が育った世界の価値観に準じているはずだが、親があとから大金持ちになった場合、それができなくなる。貧しい祖国で育ち、新天地で成功した親が、お金の意味やまじめに働く大切さをいくら説いても、子供には響かない。
子育ての難易度と富のグラフは、逆U字型の曲線になる。実は世界はまさに逆U字型なのである。世の中の有利と不利を私達が取り違えてしまう理由の1つがそこにある。
小さな池の大魚
何であれ高い目標を持つ者は、その分野で最も権威のある組織に入ろうと努力する。だが、自分がやりたい事が、本当にそこでできるのだろうか。
人は全体像の中に自分を置く事がなかなかできない。「同じ舟」に乗っている人間同士で比較しあうだけだ。だから自分が恵まれないとか、不幸だといった感覚も、あくまで相対的なものに過ぎない。幸福な国の自殺率が高いのは、周囲の人々の幸せそうな様子に、おのれの不遇がひときわ浮き彫りになるからだろう。
一流の教育機関であればあるほど、学生は自分の能力を低く評価してしまう。そこそこの学校で優等生だった者が、エリート校で劣等生に落ちぶれると感じるのである。その感情がやっかいだ。なぜなら、困難な課題に取り組んだりする意欲を支えるのは、自分はこれだけできるという「セルフイメージ」だからだ。良好なセルフイメージが持てないと、やる気も自信も出てこない。
親は良い大学に行けと言う。何が有利かという定義が頭の中に根付いているのだが、そもそも定義が正しくない。その結果、私達は誤りを犯す。不利に見える状況の中に、はかりしれない自由がある事に気づいていない。