お金儲けのための競争戦略
グローバル標準とは、グローバリズムを推進する側のルールであり、共通言語も彼らの母語である訳で、それらを採用するという事は、一長一短あったローカルルール、それぞれの母語でやっていた国や地域が、これまで築き上げてきたビジネス習慣を捨てて、不慣れな外来のシステムに糾合される事を意味している。ローカルルールや、ローカル言語が支配的であった国家や地域は、最初からハンディを負わされる事になるのである。
そこには、ビジネス上の公平性もなければ、本来の意味での正当性もなく、ただ力の強いものが弱者の生殺与奪の権利を掌握するという弱肉強食の論理があるだけである。グローバリストは自分たちのビジネス上の利益の最大化を狙っているだけであり、グローバリズムとは、世界規模にまで拡大されたビジネス競争戦略の1つなのである。
どのような経済システムであれ、近代国家においてはそれを採用する事の正当性が問われる。グローバリズムが主張する正当性がトリクルダウン効果である。富めるものがより裕福になる事によって露が大木から滴り落ちて枝下の雑草に注がれるように、貧乏人にも恩恵があるというものだ。しかし、金持ちが貧乏人を救うなどという事は、めったに起きる事ではない。
実際のところ福祉予算をカットして、大企業優遇の税制にシフトし、市場の原理に従って、弱体化して非効率な産業を潰し、国際的な競争力のある会社に資金が集中するような政策を何年も続けてきたはずだが、いつまで待っても、労働者の平均賃金は上昇せず、中小企業の経営は楽にならず、貧富格差は広がる一方であった。
平時において、日本のような成長しきった成熟国においては、企業が蓄えこんだお金が、国内の民間需要を掘り起こすための設備投資には回らない。成熟国の市場に投資したところで、投資収益率は上がらない。だから、だぶついたお金は、個人的な資本蓄積に回るか、運用という名目で金融市場に流れ込むだけであった。
グローバリズムは、通常は規制緩和、貿易の自由化、企業や人の流動化を推し進める一種の経済政策であるかのように見られるが、経済政策というよりは国際的な規模のビジネスと政治の癒着の結果考え出された、収奪のハイブリッドシステムと呼んだ方がいい。今は、成長を宿命づけられた株式会社というシステムが、政治や経済という胴体を振り回し始めている。
現在起きている問題は、過剰な消費社会が生み出したものであり、より過剰な消費社会へ向かわせたい企業の欲望と、より快適な生活を望む私達の欲望が共振して起きているという事である。私達はより快適な生活というものと、より消費可能な生活というものと見分けができないほど消費病に冒されてしまっている。その病から抜け出さない限り、世界の破壊が止む事はない。