呼吸
人生に対する通常の見方は、非常に二元的である。あなたがいて私がいる。善があって悪がある。しかし、こうした区別というものは、それ自身、宇宙という存在が気がついている、という事なのである。「あなた」というのは、宇宙があなたという形をとって、宇宙自身が気がついている。「私」というのは、宇宙が私という形をとって、宇宙自身に気がついている。あなたと私は、ただの回転扉にすぎない。そこで、坐禅の修行をする時には、時間とか空間という観念はなくなる。ただ座り、宇宙の活動に気がついているだけである。私達がすべき事は、その時、その時、すべき事をするだけである。今、この瞬間に生きるべきなのである。ただ、座って、息に集中する。その時、私達は回転扉になる。
心の波
修行をして、本当に落ち着いた静かな心を見つけるには、長い時間がかかる。様々な感情、思考、イメージが起こる。しかし、それはあなた自身の心の波である。あなたの心の外に起こるものは何もない。何かが心の外で起こったと見えるが、実際は心の中に現れたという事である。あなたが自分で心の波を起こしているのである。もし、心をあるがままにしておけば、心は落ち着く。
どのような努力も、修行のためにはよくない。それが心に波をつくり出すからである。しかし、何らの努力もなしに、心の絶対の静寂を得る事もできない。努力をしなければならないけれども、努力をしているという自分を忘れ去らねばならない。できる限り、心と身体で、何の考えも得ようともせず、最善の努力を続ければ、その時、何をしようと、あなたの行う事は真の修行になる。真の「空」は、あなたの修行で認識される。
神は与える
何ものにも執着しない、という事は与える事である。与えられるものが何であれ、それは問題ではない。私達は毎日、毎日、自分が何をしたのか、忘れるべきである。そして、何か新しい事をすること。これが本当に「執着しない」という事である。過去を知っても、ただ行った事にとらわれなければいい。後悔はしない。ただ振り返るだけである。そうすれば、これから何をしたらいいのかわかってくる。未来は未来であり、過去は過去であり、今だけが新しい事をする時である。これが私達の生き方である。
無常ということ
すべては変化する、無常であるという事を受け入れないと、完全な平静さ、平安さというものがわからない。しかし、無常という事を受け入れ難いがゆえに、私達は苦しむ。
苦しみの中に喜びを見出す事が、無常という真理を受け入れる道である。そのような努力をしなければならない。困難さは喜びである、という事を受け入れるまでに強くなる。それまで努力を続けなければならない。私達は自分に正直であれば、この真理を受け入れるのは、それほど難しい事ではない。