乱読こそが面白い
本を買って読む。読めないものは投げ出す。本に義理立てして読破、読了していれば、物知りにはなるだろうが、知的個性はだんだん小さくなる。手当たり次第、これはと思うものを買ってくる。そうして、軽い好奇心につられて読む。乱読である。本の少ない昔は考えにくい事だが、本が溢れる今の時代、最も面白い読書法は乱読である。
本は読み捨てで構わない。本に執着するのは知的ではない。本を読んだら忘れるにまかせる。心に刻まれない事をいくら記録しておいても何の足しにもならない。
読書をすすめるのはしばしば逆効果である
人間には天の邪鬼なところがある。すすめられるとうるさく感じるし、禁じられると手を出したくなる。読書推進を本当に考えるなら、本を少なくする事だ。年に何万点もの新刊が出るという話を聞くだけでも、読書欲は萎縮する。
食べるには空腹でなくてはならない。空腹にまずいものなし、と言われるように、本を読むなと言われると、何でも読んでみたくなる。読ませたかったら、まず、読む事を禁止するのが案外、最も有効な手となる。
知識と思考
知識はすべて借り物である。頭の働きによる思考は自力による。読書家は、知識と思考が相反する関係にある事に気が付くゆとりもなく、多忙である。知識の方が思考より体裁がいいから、物知りになって、思考を圧倒する。
本当にものを考える人は、いずれ、知識と思考が二者択一の関係になる事を知る。つまり、物知りは考えず、思考をするものは知識に弱いという事に思い至るだろう。人間は知識だけでは生きていかれないし、よりよく生きていく事など思いも及ばない。知識メタボリック症候群にかかっていては、健全な生き方をしていく事は叶わない。
ジャンルにとらわれない
読み方には2種類ある。1つはテレビで見た野球の試合の記事のように書かれている事柄、内容について、読む側があらかじめ知識を持っている時の読み方である。これをα読みとする。もう1つは、内容、意味がわからない文章の読み方で、これをβ読みとする。α読みは基本的な読み方だが、これだけではモノが読めるようになったとは言えない。知らない事が書いてあると、お手上げになる。どうしてもβ読みができるようにならないといけない。
乱読ができるのはβ読みのできる人である。小説ばかり読んでいては乱読できない。β読みもうまくいかない。ノンフィクションが面白くなるには、β読みの知能が必要である。哲学的な本が面白くなるには、かなり進んだβ読みの力が求められる。
β読みの力のない人は、自分の親しむ1つのジャンルにしがみつく。乱読はジャンルにとらわれない。とにかく小さな分野の中にこもらない事だ。乱読なら、専門主義、瑣末主義が見落としてきた大きな宝を捉える事が可能である。