森を見る力
僕達は、眼前の課題について、インターネットを活用する事を覚えた。自分でおいしい店を開拓しなくても、グルメ情報で、おいしい店のメニューを見る事ができる。冠婚葬祭の作法を覚えなくても、その都度、必要な質問をすれば、インターネットが答えを出してくれる。確かに便利になったが、便利さを獲得した事によって、何か大事なものを失いつつある。
既に僕達は、自分の経験ですら、無用のものにしつつあるのではないか。僕達の生活から、インターネットを無くす事はできない。だから、せめてインターネットに習熟するエネルギーと時間の一部を、インターネットから最も遠い方法論を追求するために使った方がよいのではないか。枝や根っこから、できるだけ遠くの地点から、現在の自分を見る力を「森を見る力」と呼ぶ。
「森を見る力」とは現実の問題を直視しながら、それだけにとらわれずに、遠い地点から同時に現実を見る力である。現代という時代は、人間の様々な好奇心と欲望によって入り組んで、こんがらがってしまった。様々な問題を本質的に解決するためには、僕達の視線の多様性を活かすしかない。現実を凝視しつつ、現実に拘泥しない、自由な視点も必要である。
生きる力の衰退
社会のシステム化と情報化は、様々な利便性を与えてくれたが、同時に大事な何かを失わせた。駅のホームガード、フィルタリングなどで、安全を守ろうとすると、自分で判断して、対処できるような人間に育たない。社会は、システムに守られ、管理される事によってしか生きられない人間ばかりになってしまう。交通にしても情報交通にしても、社会システムの発展におけるリスク対策を、システムの力によって対応しようとすると、人間の「生きる力」を衰弱させていく。
情報システムが不備であった時代、人間は自分の内側に、多くは読書を通して情報を蓄積していった。それは教養と呼ばれ、現実生活の中で何か困った事があれば、自らの内側に蓄積されていた情報を引き出す事ができた。しかし、今はそうした教養が不要な社会が訪れている。生活の上で困った事や、知りたい事があれば、Googleに聞けば、即座に答えてくれる。こういう環境で育った子供達は情報を内側に蓄積しようとはしなくなる。目の前の人間に聞けば良い事を、アメリカのデータベースにアクセスして、検索して確かめる。それは、民族や人類の生存方法として、あまりに危険すぎないか。
社会システムは完全さを求めて今日も一直線に進化していく。その事による恩恵が、自分自身で生きるという力を奪っていくのでは、社会が進歩していく意味がない。社会を安全なものとするためには、社会を無菌化し、自動化する事だけでなく、社会システムがダウンしても生きていける能力を養う事が必要である。