時々、自分は何を作り出しているか、と考えてみよう
人は何を作り出しているのか、で評価されるものだ。作り出すというのは、新しいものを生み出す事である。だいたい、子供や若者は、知らず知らず何かを作り出しているので、心配しなくても良い。日々の生活で、ちょっと文章を書いたり、落書きしたり、新しいアクセサリィを鞄につけたりしている。それが成人して、働くようになって、と年齢が上がってくると、そういう事をしなくなっている自分に気づく事がある。例えば、昨日は何をしたっけ? と思い出しても、一昨日も、その前の日も、だいたい同じなのである。
既にあるものを取り入れているだけ、消費するだけ、食べているだけ、見ているだけ、という生活を繰り返していないだろうか。時々で良いから、自分が何を作り出しているのか、と自問したいものだ。
食べやすい、というのは料理に対する褒め言葉なのか?
料理に対して「美味しい」と言わずに「食べやすい」と表現する事が最近目立つ。特に、若者に多い傾向だ。食べやすいというのは、流動食とかのイメージで、食べるのに苦労がいらない、という意味だ。なんでも簡単に手に入るものが良いという価値観は、今の若者をかなり支配しているように見受けられる。「わかりやすい参考書」とか「覚えやすい英単語」とかそんなコピィにも支配されている。
「でも、やっぱり簡単な方がいいよね、私、苦労したくないもん」という人は、きっと「生きやすい人生」を望んでいるのだろう。入りやすい大学に入り、デートしやすい人と付き合い、結婚しやすい人と結婚して、最後は死にやすい死に方をするのではないか。このように「やすい」ものへと流れる事が一種の「退化」だと気づく事もない。
得意不得意というのは、他者との関係で決まるものである
得意なものは、他者と比較してやっと得意だという認識になる。自分では、大した事ではない、誰でもやっている事だと思っていた事が、意外にも誰もできなかったりするのが判明する事がある。いくら頭の良い人間であっても、さらに頭の良い人間に囲まれれば馬鹿になる訳だ。そういう相対的なものだという事を、時々思い出した方が良い。世の中には、もっと上の奴がいるし、もっと下の奴もいる。
上手くいかない時には、必ず理由がある
何度も同じ失敗をする事がある。繰り返しているうちに、いつか上手くいくだろう、と頑張るのだが、この場合の頑張りというのは「偶然を期待した」行為にすぎない。一度でも成功すると、何度もそれができると思いがちだが、偶然、奇跡的に成功しただけかもしれない。人間というのは、自分の都合の良い方向へと考えるから、成功した時は自分の能力の結果だと分析し、失敗した時には偶然が重なったと捉える習性がある。実は、この逆の場合が多いのである。