「もっと尊敬されたい」という思いが自分も他人も不幸にする
他罰的という姿勢は最近の若い世代の流行だ。そういう人には、感謝が全くない事も大きな特徴である。人も羨むような立場にいる自分の幸運など少しも感じない。こういう人物は、意識下で恐ろしく自信がないのではないかと思う。
威張って、不遜で、自己中心的で、評判を恐れ、称賛を常に求め、他罰的な人というのは、既に地位や財産を築いているように見えようと、実は不安の塊なのである。自分の生涯の生き方の結果を、正当に評価できるのは神か仏かしかいない。だから他者に評価や称賛を求めるのは、全く見当違いなのだ。人生の雑音には超然として楽しい日を送り、日々が謙虚に満たされていて、自然にいい笑顔がこぼれるような暮らしをする事が成熟した大人の暮らしというものだ。
品がある人に共通すること
或る人が品がいいと感じる時には、間違いなくその人が成熟した人格である事も確認している。品はまず流行を追わない。有名人に会いたがったり、サインをもらいたがったりする事もない。そんなものは、自分の教養とは全く無関係だからだ。品は、群れようとする心境を自分に許さない。自分が尊敬する人、会って楽しい人を自分で選んで付き合うのが原則だが、それはお互いの人生で独自の好みを持つ人々と理解し合った上で付き合うのだ。
品を保つという事は、一人で人生を戦う事なのだろう。自分を失わずに、誰とでも穏やかに心を開いて会話ができ、相手と同感するところと、拒否すべき点とを明確に見極め、その中にあって決して流されない事である。この姿勢を保つには、その人自身が、川の流れの中に立つ杭のようでなければならない。
品というものは、多分に勉強によって身につく。本を読み、謙虚に他人の言動から学び、感謝を忘れず、利己的にならない事だ。受けるだけでなく、与える事は光栄だと考えていると、それだけでその人には気品が感じられるようになるものである。
生きる意味を探ること
いいだけの人生もない。悪いだけの生涯もない。もし人生を空しく感じるとしたら、それは目的を持たない状況だからだと言う事ができる。年齢にかかわらず、残りの人生でこれだけは果たして死にたいと思う事もない、という人は実に多い。
現在の日本人は、まずまず食べられるから不幸なのだ。その人が今日食べるものにも事欠くような状態なら、何か半端仕事でもしてお金を稼がねばならない、という切羽詰まった思いになり、その緊張も1つの救いになるのだが、今日の日本で普通に見る高齢者は、どうやら食べる事はできる。しかし、目的がないという状態なのだ。この空しさほど辛いものはない。
人はあらゆる状況の中で、あらゆる感覚を結集して、自分の生きる意味を探る。だから刻一刻を自分の精神が満足するように生きる事こそ大事なのである。