赤字続きの海外事業
会社は昭和30年代に入ると活路を求めて多角化と国際化を進めていた。日本デルモンテやマンズワインを設立したほか、醤油の発酵過程でできるたんぱく質分解酵素を医薬品原料として販売し始めた。
その頃アメリカの大手スーパー「セーフウェイ」の一部の店に当社の醤油が並んだ。陳列スペースの空きを埋めるためだったようだ。その時、現地紙で「キッコーマンは万能調味料」と紹介された。1957年、輸出用ラベルに「万能調味料」と記載して醤油の輸出を始めた。同時に「肉によく合う」というキャッチフレーズも考案された。
アメリカ市場開拓は成功だった。しかし多額の宣伝経費をかけて輸出量を増やしても、その分輸送費がかかるから利益に結びつかない。結果的に赤字続きだった。
社運をかけたプロジェクト
管理課企画係主任だった私は、海外部門の従来路線を転換するしかないと思った。海外現地生産という道を考える必要がある。問題は需給のバランスだ。醤油は装置産業で、一定の需要がないと成り立たない。醤油はアメリカで浸透しつつあるとはいっても、大型投資を回収できるほどの市場規模にはなっていなかった。
現地生産は時期尚早という結論になったが、1967年にアメリカ国内で瓶詰めをするようになり、コスト削減効果から北米事業は収支トントンになった。
アメリカ人の舌に、醤油は「Teriyaki」という形で確実に定着していった。1970年、年産9千klの生産能力を備えた工場を建設した場合、5年ほどで累積欠損が解消できる見通しが出た。当時の資本金36億円に対して投資額40億円。1971年に3度目の稟議書によって社長のゴーサインが出た。
アメリカのキッコーマンへ
建設地は、東海岸、中部、西海岸に分けて考える。中部は確実な需要が見込まれる西海岸にも、これから伸びそうな東海岸にも輸送の便がいい。最終候補地は、ウィスコンシン州のウォルワースという町のトウモロコシ畑となった。
1971年、地元が工場建設に反対しているという電話が入った。公害による環境破壊を心配して、工場自体に反対する声がある。町民に醤油とは何なのか、キッコーマンの工場がどんなものか理解してもらう必要があった。醤油の製造工程を詳しく説明するためのスライドを持って、説明に回った。共存、現地化、地域と共にある工場にする事を考えた。当社はソニー、YKKと共に対米進出の第一陣で、食品企業としては初の工場だった。
石油危機を経て、1974年後半から徐々に醤油は売れ始め、操業開始から4年で累損を一掃した。現在、キッコーマンは売上の4割以上、営業利益の6割以上を海外で稼いでいる。あの時、アメリカでの生産という決断をしなかったら今のキッコーマンは存在しない。