里山資本主義とは
人が生きていくのに必要なのは、お金だろうか。それとも水と食料と燃料だろうか。
「水も食料も燃料も、日本ではお金で買うものだ。そもそも輸出産業が稼いだお金があって外国から食料と燃料を輸入できる。そのお金を稼ぎ続けるには、経済が成長していかなくてはならない」という議論は決めつけが過ぎる。
必要な水と食料と燃料を、かなりのところまでお金を払わずに手に入れている生活者は、日本各地の里山に無数に存在する。山の雑木を薪にし、井戸から水を汲み、棚田で米を、庭で野菜を育てる暮らし。
「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。自給自足の暮らしに戻せという主義主張ではない。森や人間関係といったお金で買えない資産に、最新のテクノロジーを加えて活用する事で、マネーだけが頼りの暮らしよりも、安心安全なネットワークを用意しておこうという実践だ。
但し里山資本主義は、誰でもどこでも実践できる訳ではない。人口当たりの自然エネルギー量が大きい、過疎地域にこそ大きな可能性がある。
マネー資本主義へのアンチテーゼ
里山資本主義という考え方は、マネー資本主義を支える基本的な前提に反する部分を持っているため、公の場の経済議論では無視されてきた。
①貨幣換算できない物々交換の復権
物々交換が重ねられると「絆」「ネットワーク」が生まれる。しかし、GDPにはカウントされない。
②規模の利益への抵抗
なるべく需要を大きくまとめて、一括大量供給した方が、コストは下がり無駄は減り経済は拡大する。
③分業の原理への異議申し立て
個人個人が何でも自前でしている社会よりも、各人が得意な事に専念した方が、効率が上がる。
しかし、里山資本主義の内包するマネー資本主義へのアンチテーゼが、変容を促す力の1つとして作用する。
里山資本主義で不安と訣別する
今日本人が享受している経済的な繁栄への執着こそが、日本人の不安の大元の源泉ではないか。マネー資本主義の勝者として、お金さえあれば何でも買える社会、自然だとか人間関係だとかの金銭換算できないものは無視しても大丈夫という社会を作り上げてきたのが、高度成長期の日本だった。ところが、繁栄すればするほど「食料も資源も自給できない国の繁栄など、しょせん砂上の楼閣ではないか」という不安が湧きだす。
マネー資本主義の行き詰まりは、毎年の国債増発の結果、ついに世界一の借金王になってしまった日本政府の財政を見ても実感される。マネー資本主義のシステム崩壊への不安を癒す事ができるのは、別体系として存在する保険、里山資本主義だけだ。