深夜営業でブレーク
店は見る間にガラクタ商品で埋め尽くされた。何とか一息ついた泥棒市場だったが、また売れなくなってきた。お客は欲しいもの、必要なものしか買わない。だから売れないものだけが残っていく。店は「死に筋」の山となる。一方、仕入はいつもその場限りのスポット仕入だから、計画的な売れ筋の補充などが不可能である。再び泥棒市場は存亡の危機に立たされた。
ある日の閉店後の夜、店内は満杯の在庫でスペースがないから、店の外で看板の明かりを頼りに作業を行っていた。すると道行く人に「店はまだやっているんですか?」とよく声をかけられた。もちろん「やってますよ」と笑顔で答える。夜遅く来店されるお客は、大概アルコールが入っているせいもあってか、ゴミの山のような商品でも、逆に面白がってよく買ってくれた。そこに大きなる可能性を見出したのである。
泥棒市場は夜12時まで営業した。それが評判となり、ある日ラジオ局のディレクターが訪れた。そこで厚かましくもテレビ局も紹介してくれないかと頼み込み、テレビ放映が始まった。撮影直前に近所を「大安売りしますよ」と走り回り、お客がおしかけた。その光景がオンエアされた直後から「ゴミの山」はあっという間になくなった。
ドン・キホーテの誕生
泥棒市場は有名な繁盛店になった。店は一人では切り盛りできなくなったが、雇った従業員がなかなか定着しない。だから多店舗展開ができない。そこで、泥棒市場は他人に譲渡し、卸専業でいく事にした。独自に始めた電話セールスが大当たりをとる。年商約50億円という関東最大級の現金問屋にのし上がった。しかし、満足できなかった。そこで、泥棒市場で培った創業の原点、小売業に打って出る事にした。
1989年3月ドン・キホーテ1号店(府中店)を開業した。始めてすぐ難題にぶち当たった。実際に店づくりに関して、考えている事が突飛すぎて社員が分かってくれないのである。悩み苦しんだ末、最後に行き着いた解が徹底した権限委譲だ。失敗は多々あったが、社員の目の色が俄然変わった。仕事が労働ではなく、ゲームに変わったからだ。年商5億円の店が、いきなり月商4億円の超繁盛店に大化けした。
「人の心のありよう」が有望なマーケットをつくる
当時の私は流通業に関しては全くのど素人。だから、お客のしぐさや行動、心の動きなどを必死で観察し、そこに秘められたニーズを掘り起こし、結果としてお客が喜んでくれるような店づくりと品揃えに徹するより他になかった。
しかし、こうした戦略と手法が、深夜営業、圧縮陳列、スポット商品MD、POP洪水という、その後のドン・キホーテのオンリーワン商法とも言える必勝フォーマットにつながっていった。