内戦下で研究を続ける
エルサルバドルでの目的はあくまでコーヒーを勉強する事だった。大学での勉強にも全く興味を持てず、見つけ出したのが世界屈指の研究機関である国立コーヒー研究所。すぐに所長に会いに行ったが門前払い。そこで毎日、所長の執務室の手前にある秘書の机の前に勝手に座り込み、来る日も来る日も訴え続け、コーヒーを勉強する機会を得る事ができた。当時、研究所で学んだコーヒー品種の知識や品種改良の技術は、その後の農園開発や絶滅品種の復活などに大きな力となった。
1979年、23歳の時に軍事クーデターが勃発。当時、家を継がないと宣言して勘当され私は仕送りもなく、内戦を報じる日本のメディアの通訳で親子三人何とか食いつなぎ、研究所で研究を続けた。しかし、実験区は左翼ゲリラの制圧下に入ってしまったため、近くに疎開する事になった。エルサルバドルは遠すぎるため、一度帰国してしまうと、簡単に戻る事ができない。だから疎開先としてロサンゼルスを選んだ。
知人が紹介してくれたメキシコ料理のタコス屋でバイト。休みは1日もなかった。お金もなく身体もきつかったが、再びエルサルバドルに戻りたかった。
コーヒーを一生の仕事にする
ロサンゼルスでの暮らしが4ヶ月を過ぎた時、UCC上島珈琲の会長が会いに来るという突然の連絡があった。計画中だったジャマイカのブルーマウンテン農園開発の技術者にと、会長から熱心に誘われた。
当時のジャマイカは、コーヒー農園開発以前の、日々の生活もままならない程の治安の悪さだった。首都キングストンの街は、一般の民家でも窓には鉄格子がはめられ、24時間緊張を強いられる生活が待っていた。生活用品も食料品も慢性的に品不足で、停電と断水も日常茶飯事。
さらにコーヒー農園は、栽培技術がかなり遅れており愕然とした。農園開発は過酷を極めた。急斜面のため人の手で開墾するしかない。さらに80万本ほどの苗を植えていく計算になる。強盗、山火事、ハリケーンなど幾多の天才人災に襲われた。その度に気持ちを立て直し、苗を植え続けた。
農園での仕事以外に交渉や接待などの仕事が増えた頃、辞表を提出した。私はコーヒー研究をし、栽培の技術を身につける事ができるコーヒー農園が好きだった。すると会長からハワイ島のコナの農園開発を依頼された。その後、スマトラ島の農園開発や絶滅種となった幻のコーヒーの復活に携わり、51歳の時に上島珈琲を退職する決心をした。
私にはコーヒー屋として、本当においしいコーヒーを見つけ出し、それを消費国の人に飲んでもらいたいという思いがあった。消費者がコーヒーの本当の価値を知れば、生産国の人たちの意識や生活も変えることができる。コーヒーには世界を変える力がある。