18歳で単身、エルサルバドルに渡りコーヒーの研究を開始。その後、内戦下のエルサルバドルを生き抜き、上島珈琲でジャマイカやハワイ、スマトラ等など世界中のコーヒー農園開発に携わった著者の激動の半生記。
■コーヒー屋になるという夢のはじまり
私はコーヒー焙煎卸業を営む家の長男として生まれた。「コーヒー屋になる」と決めたのは小学生の時。焙煎する前の生豆を保管する倉庫に入り浸り、コーヒー豆への興味が、そのまま中南米への憧れとなり、中南米へ行ってコーヒー栽培をする事が夢になった。
1974年の春、父と東京のエルサルバドル駐日大使館を訪ね、ベネケ大使にメキシコ留学の助言を求めた。「メキシコではなく、エルサルバドルの大学へ行きなさい。私が身元引受人になり入学手続きを取ってあげよう」、父も私もその場でエルサルバドル留学を決めてしまった。
数年におよぶエルサルバドル滞在中、ベネケ大使は「Siempre listo(常に準備をしておきなさい)」、男はいつどこで何が起こっても、常に対応できる準備をしておかなければならないと教えてくれた。「ストリート・スマート」(どんな時でも何とかなるという心構え)でなければ発展途上国では生き抜いていく事はできないと教えてくれた。
小学生の頃、コーヒー屋になると決め、コーヒー一筋で生きてきた。子供の頃からコーヒー屋以外の人生は考えられなかった。コーヒー屋になるために、コーヒーが作られている国へ行きたかった。だから、日本の大学へは進学せず、エルサルバドルへ旅立った。
そして、コーヒー生産国の人たちと出会い、彼らに育てられた。18歳の私が所長の名前も知らずに訪ねたエルサルバドルの研究所で、はじめての研究生として受け入れてもらわなければ、コーヒー屋になるという夢は潰えていたかもしれない。
当時の駐日大使のベネケ氏が保証人になってくれなければ、エルサルバドルに行く事もできなかっただろう。「ストリート・スマート」という教えがなければ、内戦下のエルサルバドルで生き抜く事はできなかっただろう。
大地と格闘した農園開発も「ブルボン・ポワントゥ」という幻のコーヒー復活も、すべてはおいしいコーヒーを作る事に通じていると信じてやってきた。コーヒーのためならアホになれた。そして、コーヒーで世界を変えたいと本気で思っている。
著者 川島良彰
1956年生まれ。コーヒーハンター 静岡聖光学院高校卒業後、中米エルサルバドルのホセ・シメオン・カニャス大学に留学。その後、国立コーヒー研究所に入所、内戦勃発後も同国に残りコーヒーの研究を続ける。 1981年UCC上島珈琲株式会社に入社し、ジャマイカ、ハワイ、インドネシアなどでコーヒー農園を開発、各現地法人の役員・社長など歴任。また、マダガスカル島で、絶滅危惧種マスカロコフェアの保全保護に携わり、レユニオン島で絶滅したとされていたブルボン・ポワントゥの発見・再生で同島のコーヒー産業を復活させる。 51歳で上島珈琲を退職し、株式会社ミカフェートを設立し、代表取締役就任
帯 放送作家 小山 薫堂 |
章名 | 開始 | 目安 | 重要度 |
---|---|---|---|
プロローグ | p.2 | 2分 | |
第一章 コーヒー屋になるのが子どものころからの夢だった | p.11 | 21分 | |
第二章 十八歳で、単身エルサルバドルのコーヒー研究所へ | p.51 | 19分 | |
第三章 ジャマイカのコーヒー農園開拓を託されて | p.89 | 28分 | |
第四章 次の舞台は、ハワイの溶岩台地 | p.143 | 10分 | |
第五章 東南アジア、アフリカ……コーヒーの世界は果てしなく | p.163 | 19分 | |
第六章 コーヒーで世界を変えていく | p.201 | 16分 | |
第七章 世界最高のコーヒーが、ついに空を飛んだ | p.233 | 13分 | |
最終章 クリスマスイブの奇蹟 | p.259 | 4分 | |
エピローグ 旅は続くコーヒーで世界を変えるために | p.266 | 2分 |