建築家は競走馬
この地球上で現在、どこに富とパワーが集まっているかを示す最前線の指標が「建築」である。
1997年、ビルバオというスペインの地方都市に、フランク・ゲーリーというアメリカ人建築家が「ビルバオ・グッゲンハイム美術館」を作った。ビルバオは工業で栄えた大きめの地方都市で、観光都市としてのネームバリューはゼロだった。それが美術館ができた途端に、世界中から観光客が訪れる観光地に変身し、一挙に世界的に注目されるようになった。以降、世界中の都市が「自分たちもビルバオになりたい」と野心を抱くようになった。
野心的な都市の関係者が目をつけたのが、建築家の創造性だ。国籍や拠点にかかわらず「この人はアイコンを作れるかもしれない、それで我々の都市を救ってくれるかもしれない」という希望的観測だけで、ブランド登録された建築家に突如メールが舞い込むようになった。
メールの中身は、大体コンペティション(設計競技)への参加の依頼である。何人かのめぼしい建築家を世界中から呼んで、競わせたい訳だ。建築家は、その戦いに参加して、選ばれないと仕事が始まらない事になり、今では一年中そういうレースに駆り出されるようになった。いってみれば、毎週レースに出なければいけない競走馬みたいなもの。だから今、建築家はそんな状況に耐えられる精神力、体力がないとやっていけない職業になっている。
建築家に求められるもの
20世紀には建築家は、それぞれの国内で安定的に仕事を得て、国内的なステータスやネットワークを高めて、後は自動的に仕事が来る、といった「建築家出世すごろく」があった。昔の建築家のアイコン確立のプロセスは、住宅から始まる。実家でも親戚でもいいから、タダみたいな設計料で、小さな住宅を設計して、とにかくまずは自分のキャラクターを誇示する。それから小さい美術館、次にもう少し規模の大きな文化施設、という段階があり、そのすごろくに沿ってコマを進めていけばよかった。
戦後の日本の建築界は、丹下健三さんを第一世代として、第二世代の槇文彦さん、磯崎新さん、黒川紀章さん、第三世代の安藤忠雄さん、伊藤豊雄さんと続く。第三世代は移行期で、前世代までの国内受注システムの恩恵が残っていた。しかし、その後の第四世代になると、国内の建築需要は満たされて、そこに走る場所はなくなった。そこで、国際レースに駆り出されて出走するしかない時代に放り出された。
建築家にとって、20世紀は大きな建物を作ったら「はい、終わり」という、簡単で能天気な時代だった。建築家は社会に技能と権威を提供すれば、それで済んでいた。現在、建築家に求められているのは、建物のカタチを作る事ではない。もちろん、自己表現などというものでもない。この困難な時代に対するソリューションそのものである。