贈与することが大切
日本は間違いなく、少子高齢化が進んでゆく。社会全体がゆっくりと勢いを失ってゆく。問題は、その中で、手持ちの「ありもの」の資源を使い回して、それをどうやってフェアにかつ効果的に配分するか。相対的に見て、未来につながるような活動に優先的に資源を分配する事になる訳だが、そのやり方は「贈与」しかない。資源に余裕のある人が若くて貧しい人達に「チャンス」を贈る。そういう時代に必ずなる。それ以外にソリューションがないから。
昔だと1人働けば、複数人が食べられる環境だったのに、今では共働きでも食えないから結婚できないって言っている。元々日本っていうのはこんなに働かなくてもよい社会だったのに、働かなくちゃいけない社会に追い立てられた。その結果として経済的繁栄を手に入れた。
これを逆転させればいい。みんな働かなければ税収が減り、日本の社会はコンパクト化する。そうなった時、たまたま運良く仕事するやつが1人いたら、他の弱者を抱えればいい。書生、居候、食客といったシステムを復活させたい。戦後も1960年代までは、社会的に成功した人は、必ず自分の故郷の村から若者を呼んで引き取った。高等教育を受けて自立した書生がまた出世したら、次の世代を引き受ける。そういうサイクルを作っていた。
僕らが他人に対してできる事って、割と単純で、ご飯を食べさせる、服を着せる、寝るところを用意する。それに尽きる。他人のためにそれができる人を「豊かな人」と呼ぶ訳で、「豊かな人」になるために努力するのが社会人の義務だ。贈与するのって本当に大切な事。
自分がそこそこ努力して、ある程度の社会的成功を収めたというのは、元々が自分の力じゃない。親、友達、上司、師匠、いろんな人の支えがあったからこそ今日の自分がある訳で、恩には恩をもってお返ししなければ事の筋目が通らない。拡張型家族的な共同体が今こそ必要である。
良きパッサーたれ
「良きパッサーたれ」というのが社会人の重要な条件だ。とにかくパスを受けたら、ワンタッチで次へ回す。自分から何か他人に贈与できるものはないかという事をいつも考える。パスはなんでもいい。人間関係の中で出せるパスは決してお金だけではない。
問題は受け取った人がその贈与に対する反対給付義務を感じたら、どういうふうに、いつ次のプレイヤーにパスを出せるか。物をぐるぐる回すことが結果的に人間的な成熟を可能にする。経済活動の本義はそこから考えなければならない。
では「今オレには働く理由なんてない。働けば働くほど損だ」と思っている人達はどうしていくべきか。生きる根拠がないと悩んでいる人達は、他人に生きる根拠を与える事でしか、その悩みは解消されない。軌道に乗せてあげるためのパスはまずこちらから出さないといけない。