漫才や映画、会話、スポーツなど様々なジャンルで大切な「間」。
そもそも「間」とは何なのか?
間が悪い人は何がいけないのか?
様々なジャンルの事例を通して、「間」について考える本。
かなり笑える内容が詰まっています。
■「間」を埋めるとは
最近のテレビからは、どんどん「間」がなくなってる。ワイドショーでも、VTRが流れてから2〜3秒で何かコメントしなきゃいけないから、せわしない。みのもんたなんて、いきなりしゃべりたいことをパッと話す。「本当にしょうがないですね」なんて。理由や説明がなくて、いきなり「しょうがない」なんだから、視聴者の頭も悪くなるよ。ろくに言葉を聞いていないんだよね。耳を傾けないで、目だけで画面を追ってる。だから、あのバカバカしいテロップばかりになる。
テレビ番組の司会をしている時は、とりあえず何か言って、できるだけ「間」を空けないようにしている。聞いている方が我に返らないように、なるべく「間」を空けない。
歌舞伎町のホストもそうだろ。「間」を空けない。「間」を空けて、客が「そう言えば借金が・・・」なんて我に返っちゃったら、商売にならない。「パーッと行きましょう!」って言い続ければよくて、「そういえば、旦那さんの会社はうまく行っていますか?」なんて、訊く間抜けもいない。ジャンジャン話をして「間」を埋めていって、気持ちよくさせて何十万円もするシャンパンとか注文させるのが基本だからね。
■映画は「間」の芸術である
映画は「間」で決まる。映画監督の個性というのは「間」に一番あらわれる。だから、映画の「間」というのは監督によって大きく違ってくるんだよ。それは作家にとっての文体みたいなものなんじゃないかな。
それを具体的に言うと、まずは時間の流れのこと。映画の中に流れる時間をどう操作するかという。映画には時間的な「間」に加えて、空間的な「間」がある。それをおいらは「サイズ」と言っている。フレームの中の空間をどうやって構成するかを考えるんだけど、そのためには、まずカメラをどの位置に置くかを考えなければいけない。それからそのフレームの中で、人物をどう配置するか、背景をどう切り取るか、空間の構成を決めないといけない。
映画はとにかくあちこちに「間」が出てくる。そもそも映画は写真から始まった訳だろう。それが連続してちょっとずつ動いて初めて「映画」になる。同時に「間」が生じて、ストーリーも生まれた。
白黒の一枚の写真から始まって、今はちょっと行き着くところまで来たという感じがする。それ以上なんだかんだと付け加えてもしょうがないから、今度はいかに省くかがポイントになる。自分の言いたい事を、相手に考える余裕を与えずに見せちゃうと、一方的な押しつけになる。でも、ある程度の「間」を与えれば、あるレベルの人は考えるから。
どうしても映像で説明し過ぎると、間抜けになる。映像でもって物語をどう語らせる事ができるか。結局、映画の見せ所というのは、そういうところなんじゃないか。
著者 ビートたけし
1947年生まれ。お笑いタレント、映画監督 本名、北野 武。漫才コンビ「ツービート」で一世を風靡した後、ソロとしてテレビ、ラジオの出演のほか、映画や出版の世界でも国民的人気を博す。 1997年、「HANA‐BI」がベネチア国際映画祭グランプリを受賞
日本経済新聞 |
週刊 ダイヤモンド 2013年 1/26号 [雑誌] エンターテインメント・アナリスト 笹井 裕子 |
ビジネスブックマラソン 土井 英司 |
週刊 ダイヤモンド 2013年 3/9号 [雑誌] 法政大学教授 横山 泰子 |
THE 21 (ざ・にじゅういち) 2013年 06月号 [雑誌] プロデューサー おちまさと |
章名 | 開始 | 目安 | 重要度 |
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はじめに | p.3 | 3分 | |
第1章 間抜けなやつら | p.13 | 15分 | |
第2章 “間"を制すもの、笑いを制す―漫才の“間" | p.41 | 15分 | |
第3章 お辞儀がきれいな人に落語の下手な人はいない―落語の“間" | p.69 | 8分 | |
第4章 司会者の“間"を盗め―テレビの“間" | p.85 | 11分 | |
第5章 いかに相手の“間"を外すか―スポーツ・芸術の“間" | p.105 | 11分 | |
第6章 映画は“間"の芸術である―映画の“間" | p.125 | 11分 | |
第7章 “間"の功罪―日本人の“間" | p.145 | 7分 | |
第8章 死んで永遠の“間"を生きる―人生の“間" | p.159 | 15分 |