ジャマナカ
好きな言葉の1つに「人間万事塞翁が馬」がある。人生における幸・不幸は予測できないことを表す故事である。僕の人生もまさに「人間万事塞翁が馬」と思える出来事の連続。
医学部を卒業後、整形外科の研修医として、国立大阪病院に勤務したが、指導医は、まさに鬼軍曹だった。研修期間の2年間ずっと「ジャマナカ」。「お前はほんまに邪魔や。ジャマナカや」と言われ続けた。整形外科の主な仕事は、手術することだが、うまい人なら20分で終わるところ、2時間かかった。指導医や看護師の方々、そして患者さんに呆れられた。次第に自分は整形外科医に向いていないんじゃないか、一人前の臨床医になれないんじゃないかと悩むようになった。ここで壁にぶつかったことが、研究者という新しい道につながった。
研究者の道へ
その頃、神業のような手術テクニックを持っている臨床医にも治せない病気や怪我があるという限界を感じるようになった。研修生活が終わる頃には、基礎医学への興味が芽生えていた。そこで基礎医学に進路変更し、大学院で薬理学を専攻した。臨床医の道から逃げたというのが一番実態に近い。
薬理学教室では、血圧を降下させる薬剤の研究実験に携わる。その実験を通して、研究の世界に魅力を感じるようになる。また、その時に遺伝子改変マウスの技術を研究に使いたいと考え、それを学ぶために米国のグラッドストーン研究所に渡る。
研究所で学んだことは「VW」。ビジョン(Vision)とハードワーク(Work hard)が、人間として成功するには必要だと学んだ。当時は他の研究者の3倍働いた。研究の結果、新しい遺伝子「NAT1遺伝子」を発見するという幸運にも恵まれ、日本に戻って研究を継続した。
うつ病を乗り越える
NAT1遺伝子は、マウスの発生に必須の遺伝子である事がわかり、成体のマウスを使った実験ができなくなる。そこでES細胞に興味を持ち、研究することになった。
帰国後の研究環境は米国と対照的だった。特にねずみ算式に増える実験用のマウスの世話が大変であった。しかし、もっと辛かったのは、研究を理解してくれる人が周囲にほとんどいなかったこと。当時はヒトのES細胞の培養には誰も成功しておらず、いつできるかも見通しも立っていない状況だった。
もうちょっと医学の役に立つことをした方がいいとアドバイスを受けたりもした。研究をやめるべきか悩み、「アメリカ後うつ病」という病気にかかってしまう。
研究をやめる一歩手前の時、ヒトES細胞の作製成功というニュースがあり、ES細胞の研究が医学の役に立つ可能性が大きくなった。また、奈良先端科学技術大学院大学の助教授のポストを得るという出来事があった。こうしてiPS細胞の研究への道が開かれることになった。