黒人身体能力の生得説の誕生
19世紀後半から20世紀初頭のスポーツは「白人の世界」であった。この時代の黒人は、ほとんどがスポーツという活動と縁遠い生活を送っていた。限られた教育と練習の機会からは、限られた成果しか期待できない。人種分離体制の下、「白人の優越」と「黒人の劣等」は確固たるものとされた。知的能力だけでなく、運動能力も黒人は「劣」であると見なされた。
19世紀末以来、人種分離主義は広がったが、実力主義の風潮が強い新興のスポーツ産業は、1920年代以降相対的に偏見や差別が少ないキャリア形成の機会として出現する。20世紀最初の四半世紀は、突出した才能を持っていたとしても、黒人には職業が極めて限定されていた。芸能界と並んで、スポーツ界はその限定された中の最も有望な世界だった。
1930年代、ドイツ国内でナチズムが勃興するなか、ユダヤ人への弾圧や迫害は、国際的な問題となっていた。これに、アメリカ国民の多くは、自国の黒人に対する人種主義を棚上げし、多元主義優越論で挑んだ。
1930年代の黒人アスリートの活動には目を見張るものがあった。そして、黒人の身体能力を白人のそれとは本質的に違うものと見なし、白人の敗北を弁護、釈明しようとするジャーナリズムが活発化する。
「やつらは生まれつきなんだ」という、傷つけられた白人の自尊心を癒す口実は、黒人の自尊心を高めるものでもあった。それがさらなる運動競技熱を煽り、黒人アスリートは増加していった。
1980年代までに、黒人身体能力の生得説は社会に広く流通するようになった。
黒人だから身体能力が高い訳ではない
現在、特に長距離種目では、ケニアとエチオピアをはじめとする東アフリカ勢の強さが際立っている。他方、短距離種目では、西アフリカを出自とする選手の勝利が当然視されている。
だが、陸上競技種目における黒人選手の優越は、単に先天的な才能によるものとは言えない。例えば、ケニア人長距離種目トップアスリートの出身地は一部の地域に集中している。国際級のトップランナーは、ケニアの首都ナイロビ周辺や北東部、海岸地方からは全く輩出されない。
この一部地域に住む集団は、牛の強奪によって生活の糧を獲得する。強奪団は、夜通し牛の群れを求めて移動し、100マイルを超えることもある。このような生活習慣が、幾世代にわたって繰り返される中で、集団は人並みはずれた走力と心肺機能を鍛え上げていった。
また、ケニア人の長距離走での勝利は、「学童期に走って通学したか否か」「通学距離が長いか短いか」など、走行機会の有無や訓練や努力など、後天的な要因と高い相関関係がある。
同様に、ジャマイカ短距離選手やドミニカベースボール選手などの強さの源も、歴史的・文化的文脈で解明されるべきものである。