40億円の借金
会社を設立して4、5年は売上が思うようには伸びず、借金を抱えていたため、給料も多くは払えなかった。東京に進出し、会社は少しづつ大きくなり始めたが、業績は泣かず飛ばずの状態が続いた。
会社を大きくするため、社員が20人しかいないのに、新卒の学生を2年間で34人も採用した。優秀な人材さえ集まれば、自然に売上は伸びると思っていた。また、西新宿の高層ビルに移るなど、この頃から借金は億単位に膨らんでいった。
2000年、市ヶ谷の駅前ビルに移転。2005年、電話営業ビジネスの限界から開始した、自社媒体の事業に失敗した事から、採用コンサルティングに特化した。採用コンサルティングとは、会社説明会では何を話せばいいのか、どうすれば学生を惹き付けられるのか等、採用活動に関するアドバイスをする。
DMやタクシー広告など、集客の強化に乗り出し、大量のお金をつぎ込んだ。結果、2000年頃の売上7億円から、2003年に15億円、2004年に20億円になった。一方で借入は総額40億円にも上った。ビジネスの世界では投資する金額が大きくなればなるほど、勝てる確率の高い勝負ができると思った。金利さえ払えば、借入は一生返済しなくてもいいくらいの感覚だった。
社長からの脱落
売上のピークは40数億円だった。しかし、利益はどんなに売上が上がった時でも、1億円どまり。ほとんどの利益は使ってしまっていた。利益を残すなら、人やブランドに投資する方が効果があると思っていた。オフィスにカフェやバーを作り、社員の平均年収を2年で400万円から750万円に引き上げた。その分の原資は、すべて借金だった。
2006年頃に新卒マーケットが飽和状態になる。売上が伸び悩むと銀行から借入返済を求められた。2007年、銀行から借入を維持するために、無理をして売上計上していた事実が発覚。これまで黒字だとしていた決算が、10億円ぐらいの赤字だったこともわかった。
リーマン・ショックが最後の引き金を引いた。受注は激減し、2009年の売上14億5000万円と前年の半分。翌年はさらにその2/3。売上が15億円くらいまで下がると、金利1億6000万円を払うことは不可能に近かった。リストラも行い、社員が会社を離れていった。
2011年3月30日。東京地裁に民事再生法適用を申請した。債権者集会の開催と同時期に、自身の自己破産も申請し、許可された。
会社というのは仕事をする場である。利益を上げていく事が、会社が存続していくための前提条件である。その優先順位を見誤っていた。やはり社長には適していなかったのだろう。しかし、一つだけ胸を張って言えることは、自分なりにやり切ったということだ。