たくらみの共有
中学生の時、父兄参観日の前日のホームルームでこんな意見が出た。「先生、明日、これわかる人って問題だすの、やめてほしい。俺、絶対手を挙げられないから、母親が恥をかく」
それに対して、先生は「わからなくてもわかっても手を挙げろ、ただし本当にわかる人はパーを、わからない人はグーをだせ」と提案した。
かくして、父兄や見回りの校長・教頭が目を見張るほどの活気あるクラスが当日できあがった。先生の機智に富んだ企みの下、私たちは愉快だった。あの一体感は幸せに溢れるものだった。
現代は、携帯電話やテレビの一人一台化、ソーシャルメディアなどの個人的な情報発信により、『個の偏重』社会である。みんなで一つの社会を作り上げていく一体感が乏しくなってきている。まず、身近なところから、この企みを共有し、失われた一体感を取り戻してみようと思う。
想像料理法
韓国に短い海外出張に行った。空港の免税店で自分用のおみやげに冷麺を買った。先日、この冷麺を取り出し、袋の裏の作り方を見て、固まった。自分には意味をなさないハングル文字が連なっている。一体、どうやって作ればいいんだ・・・
字は、わからないが絵が書いてあるから、手順や概略は想像できる。文中の数字は万国共通だ。最初の絵では麺を茹でているのだから、その下の文の「3」の後のハングルは「分」に違いない。麺を水で洗っている後の「3〜4」は「3〜4回洗う」ということだろう。
こうして作った冷麺の味は実に美味しかった。数日後、韓国からの留学生に冷麺の袋のコピーを渡して、この話をした。すると、「先生、これ、冷麺ではないですけど・・・」
3日経って、正しい訳が送信されてくると、名前はともかく正解に近いものは食べていた。
この深さの付き合い
使い始めて18年と半年になる万年筆がある。相性がとても良く、使い出した時から、柔らかい感触で、使い心地は特別な満足感を与えてくれた。
ある打合せの席で、この万年筆を床に落としてしまった。恐る恐る、線を書いたが、あの柔らかい感触は残っていなかった。修理に出し、戻ってきた万年筆は、あの感触を取り戻せていなかった。
その時わかったことが2つある。
①人間は目の解像度よりも、触覚の解像度の方がはるかに高い。
②ものや人との付き合い方には深さがある。
普通、人間は外側に一つ殻を用意し、通常の生活では、その殻を自分の縁として生きている。その殻があるから乱暴な付き合いにも内側まで傷つくことなく毎日が送れる。その殻の外に、この万年筆を位置付ければ、付き合うことは容易だろう。
しかし、私は自分にしかわからないペン先の僅かな傷が摩耗してなくなり、元のなめらかさを取り戻す時がくるまで、敢えて殻の内側の「この深さ」でその不快さとも付き合っていこうと思っている。