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2012/05/22更新

キネ旬総研エンタメ叢書 『ぴあ』の時代

193分

4P

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ぴあの誕生

矢内廣は、反体制デモが蔓延する中で、映画漬けの予備校生活を送り、中央大学法学部に入学した。大学では、映画研究会に入会し、学生運動には深入りせず、とにかく映画を観る日々を送った。下宿暮らしのため、金がなく、封切映画は観る事ができない。料金が安くなる映画館に落ちてくるまで待つ訳だが、あの監督の作品を観たいと思っても、上映に関する情報がない。映画館に辿り着くにも苦労した。

1971年、矢内は映画研究会の先輩の紹介でTBSでアルバイトすることになる。このバイト仲間が『ぴあ』の創刊の仲間になる。反体制時代を過ごしてきた後で、就職すること、つまり社会体制に組み込まれることに大きな抵抗があった。

大人が作り上げた社会には、若者にしかわからない世界があるはずだ。矢内は「自分にとって何が必要なのか」を考えた。日常的に必要とするものは、何なのだろう?

どこの映画館でどんな作品を上映しているか、そこへ行く道順が誰でもわかるように書かれていたら、便利だろう。映画だけでなく、芝居やコンサート、展覧会など、すべての情報が1ヶ月分まとまって掲載されている雑誌があれば、重宝するはずだと考えた。バイトの仲間はこのアイデアに賛同してくれた。

矢内は4畳半のアパートで、雑誌のサンプルを手書きで作り、値段を100円と決めた。『ぴあ』という名前は、ただ商品名なので、耳障りが良く覚えやすい方が良いという理由で決めた。
集まった仲間は手分けして、映画館やライブハウスに電話してスケジュールを聞いた。目論見が外れたのは、映画配給会社からの広告が全く集まらなかったことであった。

矢内は、作った雑誌の流通にも頭を悩ませた。見本を持って、何の紹介もなく取次、書店を訪れたが、全く相手にしてもらえなかった。その時、見かけた新聞記事を頼りに、都内の有力書店が加盟している「悠々会」の会長を務めていた田辺茂一、日本キリスト教書販売専務の中村義治との出会いを得る。

中村は100通を超える書店宛の紹介状を書いてくれた。こうして89店の書店が『ぴあ』を置いてくれた。創刊は1万部刷って2000部ほどしか売れなかった。

矢内と仲間たちは、取次が扱ってくれなかったため、『ぴあ』を持って書店の営業・配本に回った。置いてくれたのは10軒に1軒くらいだった。こんな毎日を仲間は無給で手伝ってくれた。

2000部の実売では、紙代と印刷費ぐらいにしかならず、大学卒業後は働きながら続けることになった。大学卒業1年後、部数は上昇カーブを描くようになった。1976年、取次との取引が始まり、ようやく自前配本は終了し、取扱書店は増えていった。