環境が変わっても生き残れる適応力、精神力を身につけよ
将来的には大学に残り、物理学を究めるんだと考えていたので、就職など全く念頭になかった。しかし、「食事をごちそうしてもらえる」と言われて、就職活動で東芝を訪ねることになった。そこで出会ったのが研究所の所長である舛岡さんであった。「日本のためにはとにかく新しい半導体だ。その半導体は自分が作る。」とすさまじいオーラを放っていた。舛岡さんの話を聞いた時、「この人についていったら、世界の面白い分野で勝負できる」と直感的に思った。
東芝に入社した時には、半導体のことは何も知らなかったが、何かすごいことができそうだという高揚感があった。しかし、理想と現実は大きくかけ離れていた。舛岡さんの研究所に入った当時、フラッシュメモリは全くマイナーな存在で、社内の技術者からも、将来性がない分野と見られていた。当時はバブルがはじけた後で、収益の上がらない部門は縮小か閉鎖。フラッシュメモリも崖っぷちに立たされていた事業の一つであった。
入社後の半年の仕事は製品の不良解析。専門装置で光った部分を写真撮影するだけの、単純なボタン押しであった。次に任された仕事は中心的な回路を補助する回路作り。誰がやっても同じの、ボタン押しがちょっと高級になった程度の仕事であった。
雑用からはい上がるには、有効なアイデアを提案する以外にない。とにかく必死で考え、提案を続け、意地と執念で頑張った。
入社3年目、バブル崩壊の影響により、研究所は閉鎖され、舛岡さんは東芝を辞めた。メンバーはバラバラの部署に異動になり、新人時代とさほど変わらない仕事に逆戻りする。しかし、陰でバラバラになった先輩と、フラッシュメモリの開発は続け、特許の取得も進めた。「東芝が認めないなら、世界で認めさせてやる」と、論文を毎年学会で発表した。
その後もフラッシュメモリの開発を続け、入社7年目にMBA留学を決める。渡米している間、フラッシュメモリは主力事業になった。帰国後、新製品開発のプロジェクトリーダーになった。一方で東芝はDRAM事業の撤退。事業に失敗したDRAM部門の人達がフラッシュメモリ部門の上に立つことになった。こうしてエンジニア達は、次々に東芝を去っていった。そんな時、東大からの誘いを受け、一晩で転身を決めた。
フラッシュメモリ開発で、「走りながら考える」という生き方が身についた。どんな仕事でも、クヨクヨ悩むより、まず走ってみることが大切である。失敗したら、もう1度戻ってやり直せばいい。様子を見てからなどと言っていたらチャンスはどんどん逃げていく。