常識を用いるな
企業や文化、市場、国家などが絡む「状況」は、日々の状況とは全く違う複雑性を呈する。常識は、時代や文化によっても大きく変わってくる。この時、常識は数々の誤りを犯し、我々は否応なく惑わされる。
しかし、我々は常識に基づく推論の欠陥にはめったに気づかない。むしろ、「その時は知らなかったが、後から考えれば自明のこと」であるかのように目に映る。
実社会を常識によって解釈する時に頼っている直観と経験、一般に受け入れられた知恵の組み合わせには、以下の推論の誤りが潜んでいる。
①我々は人々の行動の理由を考える時、自分の知っているインセンティブや動機や信念といった要因に注目する。この見方は氷山の一角しかとらえていない。
②人間は互いに感化する生き物であり、他人に広く影響を与え合う。こうした影響の積み重ねは「創発的」な集団行動を生む。
③我々は自分で思っているほどには、歴史から学んでおらず、この勘違いのために未来への見方が歪められる。歴史は、実際に起こったことを述べているだけで、どんな仕組みが働いたかは全く語らない。しかし、そこに予測の力があるかのように信じてしまう。
常識に基づく推論は、世界に意味付けをするのは得意だが、世界を理解するのは必ずしも得意ではない。実社会を真に解釈するためには、実態以上に物事を知っていると思わせる常識の仕組みを吟味する事が重要である。
常識は結果論
常識に基づく説明の多くは、結果そのものがわかってから組み立てられる主張である。本当に説明になっているのかはわからない。よって、一方の教訓を他方にあてはめようとするのは用心しなければならない。
・循環論法
「Xが成功したのはXがXという性質を持っていたからである」
これは、何かが成功したり失敗したりする理由を常識に基づいて説明する時に広く見られる。
・ミクロ-マクロ問題
実社会の「マクロ」な現象は、個人の「ミクロ」な選択から成る。社会のシステムは相互作用に満ちており、個々人は他の人に影響を受ける。全体の行動は、簡単に部分の行動に結び付けられない。しかし、常識に基づく説明は、集団を代表的個人に単純に置き換えることにより、個人の選択がどう積み重なって集団の行動になるのかという問題を無視してしまう。
・前後即因果の誤謬
社会現象に関して、常識はあらゆる類いの原因らしきものを妥当に見せかける。我々は物事が連続して起こっている様子を見ているだけなのに、因果関係を推論する誘惑に駆られる。