経済成長から縮小均衡へ
経済もテクノロジーも、人間が生まれながらに持つ「自然人としての能力」の限界を超えることで進化してきた。しかし、それらによって成し得た成果は限界にきている。リーマン・ショック、デフレ、債務超過、格差の拡大、原子力発電事故。
さらなる技術革新と経済発展によって、これらの問題を乗り越えるべきだという方もいるが、ここらで立ち止まって、自分たちが求めてきたものが何かを考えてみても良い。
未開発の世界が広大に残っており、世界の人口が果てしなく拡大していくなら、大量生産、大量消費、欲望と消費の拡大は、文明発展の自然過程だと言える。しかし、市場の伸びしろがなくなってきた現代社会においては、個人の嗜好を細分化し、時間を切り刻んで、消費の窓口を大きくする以外には、需要の拡大を維持していくことは原理的に困難である。大量生産、大量消費の時代が永遠に続くという考え方には、根本的に無理がある。
小商いのすすめ
戦後の日本の歴史を振り返ると、「家族」的なものが「個」へと解体していく歴史ではなかったか。日本の家族は、核家族化し、会社は終身雇用の大家族経営から契約主体の近代経営へと形を変えていった。個人も会社も、互助的な共同体意識が薄れて、自己決定、自己責任という価値観が支配的になっていった。
家族や地縁共同体が解体されて、一人一人が自己責任で生きる時代は、消費資本主義に合致した。個の発見が、グローバリズムという弱肉強食の世界を呼び寄せる結果になった。経済成長ができなくなった現代社会は、我々が求めてきたものの結果である。
自分たちが作り上げた現代に対して、我々は責任を問われることはない。しかし、本来責任がない「いま・ここ」に対して、責任を持つことが、「いま・ここ」にある自らを必然に変える。
これは合理的に考えれば、損な役回りを演ずることになる。しかし、人間が集団で生きていくためには、誰かがその役回りを引き受ける必要がある。こうして、はじめて地域という「場」に血が通い、共同体が息を吹き返す。
こうした生き方が「小商い」である。小商いは、存続し続けることが、拡大することに優先するような商いのことである。それには、金銭至上主義的な考え方から、別の価値指標による生き方へと転換する必要がある。
小商いとは、様々な外的な条件の変化に対して、それでも何とか生きていける、笑いながら苦境を乗り越えていけるためのライフスタイルであり、コーポレート哲学である。どんな苦境も、人間が作り出したものであり、それゆえに身の回りの人間的な小さな問題を、自らの責任において引き受けることだけが、この苦境を乗り越える一歩になる。