ニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)の始まり
NOAという社員6人の新興企業は、アタリに追随するゲーム企業の中で異色の存在だった。母体の任天堂本社は日本国内で成功していた。
1980年、任天堂は日本でスペースシューティングゲーム「レーダースコープ」を開発。任天堂で一番の人気ゲームになり、3000台を米国で販売しようとした。しかし、「スペースインベーダー」の二番煎じを実績のない会社から買う必要はなく、2000台の在庫が残ることになった。
ここで「レーダースコープ」の在庫を売りさばくため、ROM交換して別のゲームに仕立てる賭けに出た。この開発を手がけたのが宮本茂であり「ドンキーコング」が誕生する。「ドンキーコング」はヒットし、売上は2年目も1億ドルを突破した。
1983年、米国のビデオゲーム業界はアタリを辞めた人達の乱立による粗製乱造によって崩壊した。日本にとっては、逆に追い風になった。1983年7月15日にファミコンが日本で発売される。ファミコンは、ゲームをニッチの世界から陽の当る表舞台へと引っ張りあげた。
マリオの世界は奥が深い。ただボタンを押すのではなく、どこまでも探検を続けなければならず、エネルギーを費やして探検するだけの価値がある。「スーパーマリオブラザーズ」は最終的に4000万本という驚異的な販売数を記録し、その後20年間世界のベストセラーゲームの座に君臨することになった。
任天堂の一時代の終焉
ゲーム機と言えば、ファミコンしかなかった時代、任天堂は繁栄を極め、サードパーティ開発者を意のままに服従させることができた。しかし、開発者にとって利益が多いプレイステーションの登場によって、開発会社がプレイステーション用のゲーム開発に乗り出し始める。コナミ、ナムコ、カプコン。スクウェアが離脱する頃には、任天堂はパニックに陥る。
任天堂はオンライン化を目指す。しかし、ユーザーの関心を惹く事はできなかった。マリオをマスコットとして押し出す限り、任天堂はコミュニティ企業と見なされず、ゲームビジネスにつながれたままであった。さらにポケモンの成功によって、任天堂はエンターテイメント企業の枠組みを超えるというアイデアにとどめをさせた。任天堂の一時代が終わった。その後の数年は、機械的にゲームを量産するだけとなった。
任天堂の復活
宮本茂はゲームそのものの原点に帰る。ゲームは楽しむための道具。楽しむ方法はキャラクターを操ることだけではない。Wiiの売上は360とPS3を遥かにしのぐ。任天堂がソニーやマイクロソフトと同じ舞台で競うことを選んでいたら、これまで同様3位に甘んじていただろう。
任天堂は学んだのだ。自分達の本当の商品はハードウェアでもソフトウェアでもなく、「楽しみ」であると。