貨幣経済の導入
平清盛が中国・宋との貿易に精を出していた1170年代頃、最大の輸入品は「宋銭」であった。朝廷は宋銭を通貨として認めず、禁止令すら出していた。しかし、宋銭は急速に普及し、日本は絹・米を交換手段とした物々交換経済から貨幣経済へと変わった。以後、戦国時代までの400年間、宋銭が通貨として使用される。
宋銭は、当初誰も「貨幣」として見ていなかった。元々は寺社勢力が、お経を書いた巻物を入れる銅製の筒「経筒」の原材料として、銅貨である「宋銭」を輸入した。
これを通貨として流通させようとしたのが平清盛である。宋銭が貨幣として全国に普及し、その輸入を平家が独占的に行うことができれば、宋銭の販売益を独占できる上、平家の都合で自由に通貨の量を調整できる。清盛は朝廷に換わって「通貨発行権」を手に入れ、一族繁栄のためさらなる富を得ようとした。
宋銭が貨幣となるには、信認が必要である。宋銭は既に「銅材としての素材価値がある」という認識が人々にあり、信認を得るのが容易であった。
宋銭の普及が不満のもとに
宋銭の普及は、多くの貴族や武士が困窮する原因となった。宋銭が普及するまで、絹・米は貨幣の代替物としての役目を果たしてきた。しかし、宋銭が通貨になると、絹・米は貨幣としての価値を失った。つまり、荘園から得られる絹・米が収入源だった貴族や寺社、各地の有力武士にとっては収入が目減りした。
宋銭の流通量は限られており、宋銭の価値は高まり、モノの価値が低くなるという、デフレ状態を招いた。
清盛が宋銭を導入した動機の一つに「銭貨出挙」というローンや消費者金融に近いことを行おうとする意図があった。しかし、これは当時、多重債務者問題を引き起こした可能性がある。利息を支払うにも銭が必要となる。これが深刻な銭不足をもたらし、銭の価値はさらに高騰した。
銭を輸入できる平家と銭を持たない人々との貧富の差は拡大した。結果として、宋銭普及で経済的不利益を被った貴族・寺社・在地領主らの不満は、平家・源氏を超えた全国的な内乱をもたらした。
平家滅亡の真犯人
清盛の時代、全世界的に寒冷期が到来する。日本では飢饉がたびたび起こっている。飢饉が起きると、米が貴重になり、米の価値が急上昇する。
1181年頃からの飢饉で、貨幣の価値は下がり、米の価値が高まるハイパーインフレが発生した。銭の価値が高まることで、富を得た平家であったが、このインフレで一気に資産を失った。この事が軍事力の低下に直結し、源氏に敗れることになった。
平清盛の最大の失敗は「宋銭」という魅惑の果実に手を出したことである。