キャリア
ザッケローニは10代半ばに、名門ボローニャの育成部門でプレーしたことがあったが、肺炎を患いプロへの道を諦めた。20代の10年間は、ホテルの食堂とバールで働き、オフシーズンには保険代理業を営む「普通の人」として過ごした。
サッカーへの情熱は衰えず、地元のユースクラブで育成コーチとして指導にあたる。こうしたアマチュアの指導者はイタリアには何万人もいて、ザッケローニもその内の一人に過ぎなかった。
プロリーグで一番下のカテゴリーであるセリエC2のチームで、ザッケローニは育成部門を指導した。並外れた情熱と知識で、少年たちの指導に当たり、地元の名門クラブを上回る成績を出していた30歳のザッケローニは、トップチームの指揮を任されることになる。ここで期待以上の成績を上げる。
地元のサッカー界では、その手腕が噂となり、セリエC2のいくつかのクラブからオファーが届くようになった。ザッケローニは、ここで最先端の戦術であるゾーンディフェンスを導入し、チームをセリエC1へと昇格させる。
この結果によって、ザッケローニの名前は一躍、全国のサッカー関係者に知られるようになる。セリエC1ヴェネツィアからオファーを受けたザッケローニは、両親から受け継いだホテルを閉め、フルタイムで監督業を行うことになる。プロ監督といっても、3部リーグでもらえる年俸はしれている。成功できる保証もない厳しい世界である。
ザッケローニはヴェネツィアをセリエB昇格へと導く。順風満帆で進んでいたかに思えたが、その後2年連続途中解任と再就任を経験する。ヴェネツィアでの3年間は失望とともに幕を閉じるが、ザッケローニは、ゾーンディフェンスを駆使する新世代の若手指揮官の一人という声望を固めつつあった。
その後のザッケローニは、ボローニャを経て、セリエBコゼンツァからオファーを受ける。このチームで奇跡のセリエB残留劇を演じた。このことで、セリエAウディネーゼからのオファーを得て、チームを躍進させ、やがてACミランへの移籍という栄光の時代に移っていく。
ミランをセリエA優勝に導いたザッケローニだったが、その後のキャリアは恵まれなかった。決して評価されない成績でもないにもかかわらず、様々な人間関係や外部要因によって「終わった監督」という見方をされるようになる。
ザッケローニの評価
・フェアで正直な人間。唯一の欠点は、時に頑固になり過ぎるところ。
・攻撃をあきらめて守りきろうという戦いを見た事は一度もない。
・最大の長所は、運が強いところ。
・優れた戦術家である。本当に念入りに試合を準備する監督。
・サッカーの偉大な教師、マエストロ。
・常に対話を通してチームを統率していく。
・マネジメントではなく、サッカーを教えることによって勝利をもたらす。