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2012/02/05更新

血族の王―松下幸之助とナショナルの世紀

332分

4P

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丁稚奉公から転職、そして起業へ

五代自転車商会で、幸之助は奉公人の忙しい日常をひた走った。朝晩の拭き掃除、陳列商品の手入れ、自転車の修繕見習い。朝は5時半に起き、夜はたいてい10時に店を閉めるまで働きずくめの青春であった。当時の幸之助の丁稚としての給与は1ヶ月1円前後、今日の貨幣価値で24000円程度でしかなかった。

幸之助が抱き続けた飽くことのない事業欲は、家名の復興にかける一家の願いが生み出したものと言える。15歳の春、幸之助は自転車の未来に見切りをつけ、新しい時代の到来を告げる電気の世界に飛び込む。
明治43年、大阪電灯の内線係見習工に採用された時、幸之助が手にした報酬は日給37銭、現在価値で月給20万円となり、丁稚時代の10倍近い俸給を得ることになる。

幸之助は長姉と義兄のすすめで20歳の時に見合結婚する。これを機に、大阪電灯の職工として配線工事をする中で思いついたソケットの改良に熱中し始める。できた製品を上司に見せるも相手にされず、会社を辞めて自分で売ろうと決める。

幸之助と妻むめのの2人が、二畳と四畳半二間の平屋を借り、改良ソケットの製造に着手したのは大正6年。ここに大阪電灯時代の同僚2人が加わった。幸之助が事業を始めるにあたり用意できた資金は、退職金や預金など合わせた百円(140万円相当)に満たない金額であった。途中、友人から百円を借入れたものの、ソケットが完成した時には、資金は底をついていた。そして、十日あまり大阪の街を回って売れたのは百個ほど。売上は10円程度にしかならなかった。失望は大きく、2人の共同創業者は、早々に見切りをつけ去っていった。

ここで幸之助とむめの、義弟の井植歳男3人のとった選択は歯を食いしばって新規巻き返しを図ることだった。孫請けの仕事を得て、忙しさの中でソケットの改良を続けた。ここに二股ソケットが完成し、ヒット商品となった。
3人で借屋からスタートした事業は、創業から20年足らずで従業員3545名の一大企業となった。この躍進の原動力は、ひとえに「大衆の欲求」を掘り当てたことだった。

敗戦を乗り越えて

幸之助の事業欲は、とどまるところを知らなかった。創業から17年で財閥を意味するコンツェルンの称号を博するまでになり、生産拠点や販売網を海外に求めていく。だがこの頃、軍の要請により、無理な事業展開を強いられ、巨額の資金調達に苦しめられることになる。

敗戦によって、会社の純資産はマイナスとなり、幸之助は現在価値で25億円の借金を背負うことになった。GHQから「財閥家族の指定」を受け、実業界からの引退も覚悟した。資金繰りに苦しむ中、井植歳男が三洋電機を設立するため退社するなどを経て、戦後の好不況を乗り越えていった。