日本ではハーバード白熱教室が成立しない
サンデル教授の白熱教室の成立には、2つの前提がある。
①言語を用いてゲームが出来る。
②正義という価値についてやり取りが出来る。
ところが、戦後の日本には、そういう言語のルールもなければ、「正義とは何か」を語るような土壌も失われてしまった。東日本大震災に直面し、日本人のヴィジョンと思想、発想と発信力が問われている今、「言葉の力」を取り戻す必要がある。
歴史的な時間軸を失い、言語力が低下した
日本人は連合国の占領統治により、基本的な自己認識としての歴史意識が否定され、全体の中で自分を語る物語を根こそぎに喪失してしまった。さらに、防衛、外交などすべて生存本能に関わるものをアメリカに任せ、リアルがなくなった。
言語技術を必要とする根拠もなくなり、結果として言語力が低下し、世界を捉えることも出来なくなった。
言語力は、国民力である
政治が劣化しているのは国民の劣化と無関係ではない。こうした劣化を「言葉の力」を見つめ直すことで改善を図れる。なぜなら、人間は言語でものを考えているのである。政治家の質が低いというなら、鍛え直した言葉の力で国民力の底上げをしなければいけない。
言葉の技術を身につける
PISA(国際的学習到達度調査)のような、ヨーロッパ型の言語技術を見につける教育をしながら、俳句や短歌のような日本語のリズムに基づいた言語技術を学ぶ必要がある。両方をきちんと身につけると、日本人は言葉の力で優位にたつことが出来る。
「ファティック」の重要性
どうでも良いような会話を続けながら、人と人とをつなぎ合わせる行為がファティックである。言語技術が家屋だとしたら、ファティックは土台の位置になる。ファティックの欠如を突破するカギは、好奇心にある。好奇心があれば、自然と質問したくなる。
その一方で、話題がなければ会話は始まらない。自分の中に話題の在庫をためるには、読書が効果的である。
言葉技術で霞ヶ関を解体せよ
日本の作家やジャーナリストは官僚機構のシステム、その構造や行動様式を深いところでつかもうとししていなかった。いま最も、「言葉の力」の再生が求められているのは、政治家、官僚であり、それをチェックするメディアなのである。
また、国民にも官僚の暴走を招いている原因がある。というのも、国民が無関心・依存体質になっている。しかし、本来国民国家というものにおいては、ひとりひとりの責任が問われる。更に言うと、官僚自体も、結局は政治家が最後に介入するから、「俺たちも関係ない」という態度になっている。こうして、国中が無責任体質になっている。