学生時代
ウォズニアックはハイスクール、大学へ進んでもコンピュータに対する興味は変わらなかった。コンピュータの設計について、手当たり次第に勉強してまわった。
やがて自分で独自のコンピュータを作ってみることになる。友人と、数週間にわたり、週日の夜と週末をコンピュータ製作に費やし、かなりの本数のクリームソーダを飲み干した。ソーダ水のビンを近所のスーパーに運び、容器代をもらい、不足している部品を買うたしにした。こうしてできあがった「クリームソーダ・コンピュータ」は、ミニコンピュータの縮小版みたいなものだった。
コンピュータが完成間近になると、友人がジョブズをガレージに招待する。そこでジョブズは、その機械とウォズニアック自身に心を打たれる。
インド行き
ジョブズは自由な校風のリード・カレッジに進学する。しかし、ジョブズの学業は不振で、一学期の終わりには完全にドロップアウトしていた。大学のカリキュラムが肌に合わないと感じたジョブズだったが、この頃に禅に関する本に出会い、それに魅せられるようになった。
1974年の初めになると、ジョブズはエレクトロニクスの会社で働けば、インドへ行く費用を稼げると考え、新聞の求人欄でアタリ社を見つける。薄汚い格好でアタリ社を訪ねたジョブズは、受付係に「怪しげな若者きている、麻薬でイカれてるか、何か魂胆があるか」と連絡されるが、技術助手として雇われることになった。
ジョブズのインド行きは、世間知らずの若者の典型で、少々おめでたい二人の西洋人がヒンズー教の建築や導師に圧倒されて帰ってきた、ということになる。インドから戻った後は、転々とした生活を送ることになる。
アップル誕生
ウォズニアックは地元の自家製コンピュータのクラブに所属しながら、この頃に登場したマイクロプロセッサを使用して、コンピュータを設計した。ジョブズはアタリで働いたり、ぶらぶらしていたが、ウォズニアックのコンピュータとの格闘からは目を離さなかった。ジョブズはしきりにプリント基板回路を作って、売り出そうと言い、ウォズニアックを当惑させた。
二人は新会社の名前を検討した。ある時、ハイウェイを車で走っている時に、ジョブズが自分の食餌療法のメニューや田舎生活を思い出し、アップル・コンピュータはどうかと言い出した。
ジョブズは試作品を部品店に見せたところ、コンピュータ完成品ならば50台買っても良いと言われる。こうして、マイクロコンピューター・メーカーとしてスタートした。
その後のアップルが成功したのは、何よりコンピュータの持つ否定しがたい優秀さによる面が大きかった。また、大々的なマーケティングの勝利の成果というよりも、投資家とレポーターを噂話に引き込む、クチコミ作戦の産物という面が大きかった。