生きる意味があるか
私たちは、人間としての生きている意味と価値を、絶対的に信じなければならない。
すべては、その人がどういう人間であるかにかかっている。強制収容所の体験の中でさえ、最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」であった。
それは、一人ひとりの人間の決断にかかっている。創造性を発揮し、言葉だけではなく行動によって、生きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっている。
人間は楽しみのために生きているのではない。ふつうの人は、日常生活のなかで、快感よりもずっとたくさんの不快感を体験する。そのため、はじめから楽しみのために生きることは不可能である。また、楽しみのために生きる必要はない。
楽しみそれ自体は、生きている意味を与えてくれるものではない。よって、楽しみがないからといって、生きる意味はなくならない。
生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務である。人生には喜びもあるが、その喜びそのものを「欲する」ことはできない。喜びはおのずと湧くものである。
幸せは、決して目標ではないし、目標であってはならない。それは結果にすぎないのである。幸せというものは思いがけず手に入るものであり、それを得ようとすれば、いつも失敗することになる。
私たちが「生きる意味はあるか」と問うのは、はじめから誤っている。つまり。私たちは意味を問うてはならない。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているからである。私たちは問われている存在なのである。
私たちは人生がたえず、その時その時に出す問い「人生の問い」に答えなければならない。生きること自体、問われていることにほかならないのである。その問いに答えることは、生きることに責任を担うということである。
つまり、「人生」という問いは、ただいつも「自分の」人生に責任をもって応答することで答えることができる。
未来がないように思われても、怖くはない。現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからである。その際、どんな未来が待ち受けているかは知るよしもないし、知る必要もない。
人生にイエスと言う
ブーヘンヴァルト収容所の囚人たちは、彼らの歌の中で「それでも人生にイエスと言おう」と歌い、それをいろんな仕方で行った。そのような条件と比べ、ましな状況にある私たちが、それを行いに移せない訳がない。人生はそれ自体に意味がある訳であり、どんな状況でも人生にイエスと言うことができる。